"平和の原点"を見つめ、この地球から核と戦争をなくしましょう。
このサイトは、埼玉県坂戸市で毎年行われる「ヒロシマ市民の描いた原爆絵画展」の記録を掲載しています。
原爆ドームイラスト ホーム  > 2002年 第10回原爆絵画展報告集目次  > ヒロシマ被爆体験 小方澄子さん

ヒロシマの被爆体験を語る 語り部 小方澄子さん

語り部 小方澄子さん

小方澄子さん 広島市在住 70歳

 「13歳のときに、爆心地より約60メートルの自宅で被爆しました。被爆して57年間、あまりに悲惨な状況が頭に焼き付いて語ることができませんでした。しかし、生き残ったものの責任があると思い、語りつぐ決心をしました。」と一言一言言葉を拾い集めるように語り始められた体験談に会場は静まり返りました。

 「8月5日の夜、空襲警報発令が続き一睡もできず、6日は学校を休みました。爆心地の前を通って通学していたので、学校に行っていたら蒸発していたと思います。すごい轟音とともに家の下敷きになり、気絶していました。私を名を呼ぶおばの叫び声で気が付き、地上に這い上がりました。3歳の弟を背負い西へ西へと逃げました。道がないので瓦礫を伝わって逃げました。橋の欄干は燃え、川の中は人でいっぱいでした。しばらくして黒い雨が夕立のように降ってきて、辺りの人は皆真っ黒に染まっていきました。

 それから一週間、野宿した後トラックで避難しました。そのころから嘔吐や下痢がはじまり、髪が全部抜けました。まもなく高熱が出て意識不明になりました。そのころおばは内臓から出血して亡くなったそうです。それから体のあちこちがはれ上がり、そこから膿みが出て治癒するのに半年かかり、そのあとは全部ケロイドとなって残っています。

 私は奇跡的に助かりました。今の世の中は不安でたまりません。これからも、被爆者の生き残りとして体験を語っていこうと思います。

※ 小方さんの語りは、当実行委員会発行の冊子「いま語りつごう−ヒロシマ原爆被爆体験集」に収録されていますので、そちらをご覧ください。

 そのあと小方さんの付き添いで来た弟の三好さんから、当時の広島についての補足がありました。広島は日清戦争からの軍都でした。そのころは広島までしか鉄道がなく、広島の宇品港から兵士が出ていったのです。広島湾から約4キロメートルのところに、似島という島があります。その島には検疫所があり、戦争から帰ってきた兵士をそこで検疫していました。また傷病兵の治療にもあたっていました。

 原爆が投下されたあと救助に行った第一部隊が返ってきたとき非常に驚いたそうです。それまで多くのけが人を見てきたけれど、それは今まで見たこともない姿をして、草ぼうぼうだったところから600数十の遺体が見つかりました。広島から運ばれてきた原爆にあわれた方の遺体が焼くこともできずに穴を掘って埋めてあったのです。

 当人は学童疎開(小3年から6年まで)で広島の郊外にいてかろうじて免れたけれど、直後に帰ってみる2年生以下の者は全滅だったそうです。その後、空き地でボール遊びをすると遺骨に当たることもしばしばで、恐ろしいことにそんな風景にも人間は慣れていくそうです。人の心がそんなところに追い込まれないようにすることも大切なことだろうと思うというお話でした。

 話を聞いた後、会場からも発言がありました。

 今回「被爆体験記」に原稿をお寄せくださった田坂さんは、
「体験記を寄せるにあたって『勇』は、仮名にせざるをえませんでした。本人は今春4月、原爆症で亡くなりましたが、まだご家族の方がいらっしゃいます。というのは、被爆者に対して、原爆の放射能の遺伝子を持っているという強い偏見があるからです。被爆してもその事を語れない多くの人がいらっしゃいます。今日お話しになった小方さんは勇気があると思います。被爆しても元気な90歳の方もいらっしゃるし、その影響はさまざまです。だから、そういった偏見に対しても立ち向かっていかなければならないし、また、大きなテーマである『人類の平和』を人間の知恵でもって達成していきたいと思っています。」 とお話しになりました。

 その他、アンケートに書ききれなかった方からの、
「8月だけのイベントとして終わらせたくないと思います。それと、平和運動団体もそれぞれの主張はいろいろあるでしょうけど、手を取り合っていけばもっと大きな力になると思います。観光で行ってもなかなか語り部のお話を聞くことができない。本で読むのが精一杯でしたけれど、今日はそれを直接聞くことができ感謝しています。」
というご発言もありました。

 最後に、
「今日は夏休みの宿題もあってここに来ました。学校ではなかなか深いところまで教えてもらうことがなかったので、分かっていない人も多いと思います。学校でも、こういった被爆体験の話など、してほしいと思います。」
という高校生の話で幕が閉じられました。

 原爆の惨状やその重い体験を聞くとき、それは太平洋戦争におけるアジアや沖縄の多くの戦争被害者と、1991年のイラク戦争で使用された劣化ウラン弾による白血病で苦しむイラクの子どもたち、また、今なお戦火にさらされているアフガンやパレスチナの人々の、苦痛の声とが重なります。

 敗戦後、平和憲法のもとにあやまちを二度と繰り返さないことを誓ったはずなのに、今や憲法第9条は危機に瀕しています。それどころか、アメリカの世界戦略に追随し、後方支援と称して海外派兵までもしてしまいました。今回も戦争の体験をされた方々から、「今、戦前と同じようになってきた。」という言葉を何回か聞きました。住民基本台帳ネットワークしかり、この秋再び上程されるであろう有事立法しかりです。

 戦争は絵空事ではないのです。ボタン一つで爆弾が落とせる世になったかもしれないけれど、ボタン一つで心や体に受けた傷は治せないばかりか、失われた命は取り戻せないのです。お話を聞きながら、そんな取り返しのつかないことにならないように、私いま何をしなければならないのかを、しっかりと考えさせられました。

 今回の会場での話には出てこなかったのですが、被爆者、特に年少者はABCCというアメリカの調査機関に原爆の人体に与える影響について、定期的に調べられたのだそうです。学校や自宅に直接車で迎えに来て調査した結果、菓子を渡されて返されるのだそうです。うら若い乙女たちが裸にされ、放射線の生殖機能に与える影響なども調べられた事を聞くと、これは二重三重の被害であると思います。小学生の子ども達も、送り迎えされていくら菓子をもらっても、いくのはとてもいやだったそうです。そうして調べた被爆者の医学的資料をアメリカ軍は独占し、被爆者の治療に生かしてこなかったのです。こんな事からも、私たちは、属する「国」や「組織」の利害を越えて、人と人として接する事の大切さを教えられたと思います。

 (文責 吉澤)