"平和の原点"を見つめ、この地球から核と戦争をなくしましょう。
このサイトは、埼玉県坂戸市で毎年行われる「ヒロシマ市民の描いた原爆絵画展」の記録を掲載しています。
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メディア掲載

朝日新聞・埼玉新聞に絵画展記事が掲載されました。

「生き残った私の責任」
〜坂戸で原爆展・講演 偏見への決意表明(朝日新聞)

 「生き残った私の責任だと思って、今年初めて話す気になりました。ここが二度目なんです。」 広島原爆の被害者、小方澄子さん(70)=広島県在住=は、マイクを握り締めて話し始めた。24日、坂戸市北坂戸の市文化施設オルモで地元市民団体が主催した原爆絵画展・講演会は会場を埋める市民約70人が詰め掛けた。

"あの朝"の体験談

 入間郡毛呂山町在住の俳優座女優、高山真樹さんが峠三吉の「原爆詩集」を朗読。その後、主催団体メンバーで川越市在住のめい、吉沢倫子さんの招きで来県した小方さんが被爆体験を話した。

 「あの朝、母は弟の学童疎開先へ行き、留守。私は前夜に続いた空襲警報で眠れず、学校を休みました。登校してたら通学路の途中の爆心地で蒸発してました。」

 血だらけの人たちがさまよう地獄のような町を、3歳の弟を背負って逃げ、九死に一生を得た体験談に会場は静まり返った。

 一方、身内を捜して市内を歩き回った体験を今まで黙っていたという川口市の書道家田坂香山さん(68)は「不当な差別があるため、被爆者であることを隠している人がどれだけいるか。今こそ、偏見に立ち向かっていきたい」と決意を表明。

 当時14歳で、やはり初めて被爆者であることを明かしたという越谷市のグラフィックデザイナー今村英夫さんは、被爆直後の市内の様子を描いた自作の絵を展示した。絵を公開するのも初めてという。

 学校帰りに偶然立ち寄ったという県立坂戸高校1年生、小笠原奈緒さん(15)=比企郡小川町=は「小方さんのような体験談をぜひ学校でも聞きたい。私たち若い人は戦争に対するイメージが薄い。聞けば若い人もほんとにひどい実態が伝わるのではないか」と話していた。

 (2002.08.26 朝刊)

埼玉新聞 さきたま抄

 24日、坂戸市内で原爆絵画展があった。NHK広島放送局に集まった被爆者たちの絵の展示を地元の主婦、池辺悠子さんら市民グループが細々と続けてきた。10年続いた記念にと、メンバー吉沢倫子さん叔母で広島の被爆者小方澄子さんを講師に招いた。

 70歳、当時は13歳の女学生。3歳の弟を背負い、地獄のような町を西へ西へと歩き、黒い雨にぬれながら河原や山の中で野宿。やっと落ち着いた親せきの家で意識不明の重体に。再び元気になるまで半年。背中にひどい傷が残った。

 今まで口を閉ざしていたが、初めて被爆体験を語るという人がこの夏、幾人も出てきた。小方さんもその一人。広島の市民団体の勧めで、話す決心をした。「生き残った私には話す責任がある」と言う。

 広島、長崎の原爆から57年。長い年月、なぜ多くの被爆者たちが黙り、被爆者であることを隠さねばならなかったのか。そのことが心の中に引っかかり、考えた。

 被爆者への差別があるという。それは子どもたちにも及んだ。原爆の被害に遭い、その上、同じ日本人同胞の視線から傷つけられる。二重の被害。世界で唯一の被爆国として反核・平和を世界に訴える日本としては、まことに恥ずかしい話だ。

 被爆者は57年間もの長い間沈黙を強いられてきた。そのその痛みを知らなかった自分を恥じる。

 (2002.08.27)