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40.東京大空襲当時に遭遇して60年、その頃の思い出

上尾市 山田利一(87歳)

大空襲当時の日常生活

 その頃、私は墨田区東両国3丁目に住んで居たので、毎日、駅から電車道を横切り、歩いて5分くらいで着ける両国駅に行き、総武本線で御茶ノ水駅を経て、中央線の電車で国分寺駅まで一時間半もかけて技術研究所(電気通信技術の研究開発をしていた)へ通っていた。

 Kさんも江東区新大橋の傍の住まいから、同じ研究所の製図室に勤めていたので毎日一緒に両国駅から、ぎゅうぎゅう詰めの列車で通勤していたが、同乗客に息が詰まる程押し付けられるので、私が何となく庇い役になっていた。そんな事もあって、昭和20年3月9日の夕方、Kさんが通勤でお世話になっているお礼ですからと、わざわざ、故郷から送って貰ったお米5合ほどを届けてくれた。

 この頃の私達の食事は、配給される僅かばかりの玄米を一升瓶に入れて、一生懸命、棒で突っついて精米し、とてもみずっぽいお粥にし、その中にさつま芋とか大根等を混ぜて量を増やして食べていたので、久しぶりに美味しい白米のご飯が食べられると親父と一緒に大喜びし、早速お米をといでアルミの釜に入れ水加減宜しく、明日の朝の食事を楽しみに親父と共に就寝した。

初めての空襲

 就寝して間もない9日夜11時頃初めての警戒警報のサイレンが鳴り響いた。さあ大変だと、親父を起こし防空頭巾の上に敷布団を被せ、100メートル近くにある本所国民学校へ連れて行き、取り敢えず講堂へ避難してもらった。その後、大急ぎで家に引き返し、防空服に身を固め、鉄カブトを被り、先ず何より大事な仏様の過去帳を内ポケットに納め、次に義兄から借りたカメラを首に下げた。

 更にその当時、小生の結婚の相手なんかまだ決まってもいないのに、親父が結婚の時にと揃えて呉れた、新しい夜具布団とか、紋付袴とか、まだ履いていない桐の下駄、その他家の古文書らしき物、写真、大事な本等、兎に角大事な品物を、いざという時に使う為、家の前の道路に苦労して掘った小さな防空壕(長さ2m、幅1m、深さ1m程の物)に大急ぎで運び込み、周りが燃えても焼けない様に手早く埋め込んだ。その後新品の自転車を外に出し、朝飯を炊く為のお米の入ったアルミの釜を防空壕の入り口辺りに持ち出した。

 やれやれと、ホットした時、家から100メートル近くの西方向にある昔の国技館(現在の日本大学講堂)の真上をB29爆撃機が、東方向へ向かって200~300メートルくらいの低空飛行で飛んで来るのが見えた。その爆撃機の鈍く光った胴体の腹部がパッと開いて、何か黒い小さな棒の様なものが、バラバラと落ち、あっという間もなく雨だれの様な火が流れになってヒサシに燃え移り、屋根裏から家中が物凄い勢いで、ぼうぼうと燃え始めた。

 何だろうなっと思ってみていると、その黒い棒みたいな物が道路向かい側のメリヤス屋さんの屋根へバラバラと落ち、屋根裏から家中が物凄い勢いで、ぼうぼうと燃え始めた。

 あれっ如何したんだと思ったら今度は我が家にも両隣も一度に火がついて燃え始めた。これは大変なことになったと思い、何が何でも火を消さなければと、防火用水の水をバケツに汲みこんで一生懸命、家の外壁にかけて消し始めたが、とてもバケツ何かじゃどうにも消える程度の燃え方ではなく、私ひとりではどうにもならなかった。

 同じ家並みにある近くの相撲部屋や、前も後ろも、あっちもこっちもぼうぼうと燃え始め、逃げ場を失い、何とかこの場を抜け出そうと火を潜り抜け、我が家のわき道を這い歩きながら、やっと思いで、千葉街道の電車道路(40~50メートル幅)へたどり着いた。

親父と共に火の海を潜り抜ける

 兎に角、何よりも親父を助けなければと、電車道の両側が燃え盛る中、その熱さに耐えながら本所国民学校へと向かった。

 学校の玄関入口には、入口近くの家の燃えた火が流れ込む様に入り始めている。何が何でも親父を探さなければと、避難している筈の講堂へ行き、親父を見つけようと一生懸命に見回した。

 その時、たまたま立ち上がった人がいた。あれっ如何したんだろうと思い、よくよく見れば、其の人は捜し求めた親父の後姿だった。何はともあれ、大急ぎで連れ出し、火を潜りながら電車道へ出た。

 其処はもう両側が燃え盛り、幅40~50メートルもある電車道路の真ん中を歩いても、体中が熱くてたまらない。こんなことで死んで堪るものかと、親父の手を握り一生懸命庇いながら、背中を押し押し、やっとの思いで風上の両国橋の袂へたどり着いた。

 500メートル位の距離の事なのに、道の両側の家がぼうぼうと燃え盛り、その灼熱の火に追い詰められながら、九死に一生を得て逃げ延びたので、疲れ果て、親父と共に、両国橋の本所側の袂にしゃがみ込んで、敷布団に包まれながらウトウトと眠ってしまった。目を覚ますと電車道路の両側は未だ盛んに燃えていた。

 暫らくすると東の空が白んできたので両国橋袂から東の方向を見たら、錦糸町から亀戸辺りまで、別世界の様な何にもない焼け野原になっていた。焼け残った木造家屋等一軒も見えない想像外の無残な光景だった。

 火が収まった後で我が家の焼け跡を見に行ったら、夜具布団とかすぐ使える物は、誰かが持ち去ってしまって空っぽになっていた。アルミの釜は、研いだお米があったあたりの鍔の上から解けて無くなっていて、中のご飯は誰かに持ち去られ空っぽになっていた。

 新しい自転車も焼けてグニャグニャになっていて、使い物にならなくなっていたが、何より小生の仕事には欠かす事が出来ない、大事な通信工学大鑑と、中身が何かも調べずアルバムを持ち出した。

 Kさんも新大橋で焼け出されたが、十日の明け方、私達の事が心配でお母さんと一緒に焼け跡を見に来てくれたそうだが、処が余りにも醜い焼け方で、防空壕も空っぽになっていたので、もしかしたら私達一家も劫火にあって逃げ切れず、助からないのではないかと、とても心配しながらお母さんと故郷へ旅立ったそうだ。

長姉のご主人の消息

 当時、長姉の御主人は予備軍の輜重兵として招集を受けて、生まれたばかりの赤子を背負った長姉に見送られ、昭和19年11月に世田谷の部隊に入隊し、間もなくハルビンへ従軍させられた。

 その後、日本軍が降伏した後にソビエト軍が参戦し、終戦後、ソビエト兵に拉致されシベリアのビロビジャンと言う森林地帯に連行され、強制労働を強いられ、極寒地で連日、製材作業の強制労働をさせられた作業中に製材機械に巻き込まれて大怪我をし、手当ての甲斐もなく死亡したとの事だった。

 また、別の帰還兵の話では、そんな所には製材機械なんかある筈もなく、材木運搬などの強制労働と極寒地での疲労と乏しい食事で死ぬこともあるかもしれないが、その話はどうも可笑しい話で、おそらく聞き違いの誤報だと思うといっていた。

 その帰還兵の話では義兄はマンドリンとか色々な楽器を使っての音楽がとても上手で、ソ連兵達に大人気となり望まれて思想教育を受けて、モスクワの情報局へ移され、情報局の勤務員となり、大変優遇された生活をしていたとか言っていたが、此れとて確かな情報とも思えない。その後の生死は不明で、政府の戦死広報で知らされた死亡日を命日として決めざるを得ず、その日が命日になった。

安田庭園への道

 その後、何はともあれ子ども達家族(長姉一家と次姉一家)と会わねばと、災害時の待ち合わせ場所の安田庭園へ行くこととした。

 明け方の両国橋の袂から安田庭園へ行く道は、未だ辺りが燃えていて行けなかった。其処で両国橋を渡って浅草側へ出て、浅草橋を渡って雷門方向に行き、蔵前橋を渡って安田庭園に行くことにした。

 ところが両国橋を渡って日本橋、浅草側へ着いて、其処も焼夷弾による空襲を受け大変な焼け方だった。歩き始めた途端、その光景は今まで見た事も無い、この世の生き地獄を見る事になってしまった。

 まず目にしたものは、人の体がまるで風船をパンパンに膨らました様に膨れ上がった、たくさんの遺体が道路にゴロゴロと転がっている。

 道路の両側の家の人たちが突然の業火に襲われ、何をする間もなくただただ逃げ惑い、死に物狂いで、逃げたが逃げ切れず、心ならずも命を絶つことになってしまったのだろうと思った。このままでは厩橋へ行く道は通るに通れず、やむを得ず、ご遺体のご冥福を祈りながら、ご遺体をまたいで行く他はなかった。

 暫らく歩いて蔵前橋を渡ろうとしたが矢張り空襲を受けてか通れなかったので、厩橋を渡ることにして歩き始めた。 やっとの思いで、厩橋の袂に着いた。そこで目にしたものはー。 燃え盛る熱風で水が無くなった用水桶の中に熱さを避けてしゃがみ込み、用水桶の端をつかみ、恨めしそうに目を見開らきながら睨むように道行く人を見据えて、死んでいる遺体を見てぞっとした。

 此れが戦争のむごさかと思う時、すべての日本国民が、子々孫々二度と再び、この様な戦争を起こしてはならないと心に念じつつ、善良な多くの同胞を不幸にする戦争は、何をおいても、あらゆる手段を尽くして阻止する様心がけていただきたく、是非ともこの文章を読んで頂いた皆々様に切に切にお願い申し上げます。

厩橋から安田庭園の道

 さて、私達はこの後、厩橋を渡って横網町のライオン歯磨きの工場の前をとおり、同愛記念病院わきを通って安田庭園へ着いた。その途中の横網町も殆んど消失していて、指嵌め屋(指輪)の私の叔父さんの家も殆んど燃えてしまって、人影も見えなかった。

 親父と私は姉家族たちが集まるのを待った。暫くすると次姉一家五人がたどり着いた。それから間もなく、墨田公園近くの小梅町から長姉一家(乳母車に乗った子と、姉に背負われている赤子)が燃え盛る火に追われながら、やっとの思いで、安田庭園まで逃げ延びてきたので、皆、へとへとに疲れて芝生に座り込んでしまった。

 夜中から明け方まで、誰もがうとうとと眠り込んだ。翌朝、ほの明るい明け方の太陽に目を覚まし、皆を揺り起こした。

 安田庭園で一休みしたが、ここに居ても夜露を避けて寝る所もなく、食料もないので、これから先どうしたら良いか思案に暮れた。そこで皆と相談の上、何はともあれ、取り敢えず遠くても松戸の次姉の親戚の家を訪ねて、一夜でもよいから宿を遣わして頂けるようにお願いすることになった。

 さあ、それからが大変。疲れきった体で安田庭園から水戸街道を約15キロ位の道を歩いていかなければ、松戸へは着けない。兎に角、生きる為には、みんな元気を出して頑張ろうと、次姉の主人を先導に、次姉一家4人と親父と長姉一家3人と乳母車を押す私の順で、総勢10人が松戸へトボトボと歩き始めた。

 ところが四つ木大橋の辺に来た時、私が押していた子どもが乗っている乳母車の大事な車輪が、四個の中の二個のスポークが折れてバラバラになり、押すに押せなくなってしまった。

 止むを得ず、壊れた車を外して乳母車の手押し棒に腰紐を縛り付け、その紐を首に引っ掛けて吊り上げながら、二輪の乳母車を押して松戸への道をゴロゴロと歩き始めた。幼い子もさぞ辛かったことだろうし、他人が見たら、さぞかし不思議な光景に見えただろうが、そんなことは言っていられない。ただただ、目的地の松戸の親戚の家を目指して歩くのみだった。

 皆、やっとの思いで義兄の親戚の家にたどり着くことが出来た。何はともあれ、へとへとに疲れきった体を休めるため身軽な服装になって手足を伸ばし、恐怖心からも開放され、のびのびと、ごろ寝が出来たことで誰もが安堵したようだ。

 取り敢えず、疲れた体を休ませて貰ったが、義兄の親戚としてもそんなに大勢の人を長い間世話が出来る筈もなく、そこでみんなで相談し、義兄の家族だけ面倒を見ていただくことになった。

 長姉家族一同と父は、他に頼る親戚もなく新小岩の妹さんの家へ向かった。だが、此処の家でも、そんな大勢は面倒を見切れないとの事だった。止むを得ず、暫くの間、姉の長男と私は勤務先の研究所の防護隊が常駐する宿直室の片隅に泊めて頂く事になった。

 一物も持たずの私達二人は、日々の食事の面倒から夜具布団の手配までして頂き、本当に大助かりだった。当時は世間一般の人々が、何を入手するのも大変だった頃で、私と一緒に同じ研究をしていた人達から日常生活に必要な品を頂く事になった。

 A技術大尉からは金40円とミカン5個頂き、O技術中尉からリンゴ10個頂き、I技術中尉からは、被災見舞いにと茶碗2個、湯呑み2個、米二升、靴下2足頂いた。その他、S技手から湯呑み2個、Oa君から餅6切れ、Ob君から餅15切れ、S様から箸を頂きその上、私が研究に携わっていた研究室一同の皆様からも被災見舞金として60円也を頂き、日々の生活が出来た事を心から感謝申し上げたい。

長姉家族一同と親父の歩み

 暫くの間、お世話になっているうちに同じ研究所勤務の将校が四国方面の部隊に転任になり、住んで居た武蔵小金井駅そばの家が空いたので、上司から入居を勧められ、早速、親父と長姉一家を呼び寄せて、新しい生活の一歩を踏み出す事が出来る様になった。

 この家は武蔵小金井の大地主のOさんの持ち家で、今まで研究所の将校が借りて住んで居たこともあって、快く貸して頂いた。 その当時、敷金130円、家賃30円、地代5円37銭だった。その後の長い間の長姉一家の生活の場となり、親父も一緒に住み、親父が、千葉県の八街地方から落花生等を仕入れて来て、それを姉が近隣の人達に売りさばいて、家族一同の生活費にしていた。

終戦までの道のり

 この頃から武蔵野辺りの工場を狙って盛んに空爆が行われる様になり、昭和20年4月中頃、埼玉県平方町に造られた研究室の分室(終戦後、平方青年学校となり、後に太平中学校になった)へ移転するようになったので、そのため、私も平方町の農家に下宿し、取り敢えずは安心して日々研究にいそしむ事が出来るようになった。

 ところが聞くところによれば、日本各地での市街地の焦土爆撃が行われ、しまいには、広島、長崎への原子爆弾投下の情報が入り、終戦の為の降伏勧告が出されたことを知らされ私達研究員は大変驚いた。 そして遂に、昭和20年8月15日、日本軍が米軍に降伏した。

 そこで、私達研究員の誰もが、研究を止めなければならない事をとても残念に思ったがどうにもならず、米軍から派遣された通信兵に平方の研究室の管理と研究に使っていた各器材の引渡しをした。

 米軍の通信兵は意外と友好的で、私が彼等の通信機器の修理をしてあげた事もあって、仲良く自転車に乗って川越へ遊びに行くような親しみのある、友達の様になっていた。その後昭和20年9月に我々研究員は、日本陸軍からその任を解かれ解放された。

 その結果、お世話になっていた農家の下宿を立ち退く事になった。暫くして、平方の下宿町内の古い空き倉庫を借りてラジオ屋を始めることになった。

 その頃、2月の寒いさなか突然、米軍の二人の兵士が乗ったジープが来て、吹きさらしのジープの後部の荷物を載せる幌無しの座席に乗せられ、両足を踏ん張りながら、幌用の棒に?まり凍りつく様な寒さを我慢し、不安に駆られ、ただ黙々として付いていった。

 連行された処は日比谷のマッカサー司令部で私の研究内容調査のため、米軍の将校に研究について聞かれたが余り厳しい尋問もなく無事返され、市ヶ谷の元造兵廠で平方の研究室から押収してきた研究製品の説明をさせられた後、再びジープで平方へ送り返された。

終戦から親父の最後を見送るまで

 その後、研究所の終戦処理事務所から、当時としては大金だった、金4,000円也の退職支度金を頂き、私としては直ぐに何かに使う目的もないので、取り敢えず金もなく、落ち着いて生活する場のない親父と長姉一家の生計の元手として使ってもらうことにした。それで当時としては、簡単に始められる庭先での小商売をやる事になった。

 この頃から親父が、戦後の何も無い不自由な暮らしと重なる苦労の為か体調が悪くなり、逓信病院で診察して頂いたが胃が悪いらしく、その当時としては癌の告知もなく、なんとかして元気になって欲しいと慶応病院の先生にも診てもらったが、もう手遅れの胃がんだから本人の食べたいものを食べさせて、見送ってあげなさいと言われた。

 親父が食べたがっていた、時期はずれのおこわと牡丹餅をラジオ屋へ、時たま来ていた平方の農家の人に無理やり頼んで作ってもらい、大急ぎで、小金井に持ち帰り、心待ちにしていた親父に食べてもらった。本当に嬉しげに食べている有様を見て、間もなく人生の終わりを迎える、親父の痩せ衰えた姿が目に付き、とても切ない思いがした。

 その後に段々と、体中が浮腫むようになって、とうとう手当ての甲斐もなく71歳(命日は昭和20年10月24日)で他界した。

 当時は、葬儀社等ない時代だったので、何から何まで私一人でやらなければならず、中野の火葬場への移送の手配から、其処での姉達とだけの簡素な葬儀を行うまで、何とか済ませ、父の遺骨を菩提寺の墓地へ埋葬したうえ供養までさせていただくことができて、やっと最後の親父への親孝行ができたんだと心の安らぎを感じた。

 敗戦後の苦しい世の中とはいえ、平和になったお陰で、その後毎回年忌を行うこともでき、さらに50年忌法要も行うことができたのは、平和であることのお陰と、つくづく平和の有難さを感じた。

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 最後に、この戦争で犠牲になった多くの民間人は軍人でないと言う一言で、靖国神社に祀られることもなく、国民の血税を使って一人の遺族だけでなく、次から次へと代替わりでいつまでも支給される遺族年金を、軍人遺族の方々は一体いつまで支給して貰う積もりなのか。戦後60年の節目の年、財政赤字で容易でない日本の再生のため、是非とも、今年の終戦記念を以って遺族年金を終了し、国の財政赤字の減少に協力して欲しいと思います。

 何より、戦争で犠牲になった民間の人々は、単なる犬死なんだとでも言うのか、何の供養もされない多くの一般民間人犠牲者の方々のご冥福を心から祈り、是非とも早急に、一般民間人の戦没者追悼施設を造って、名も知れず、犠牲になった民間人の供養のため、多くの人々が、心から御霊の追悼をして頂きたいと思います。

 以上で、東京大空襲の記述を終了させて頂きます。