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38.出征兵士を送った或る駅頭の思い出

さいたま市 渦尾猿之助(83歳)

 戦時中の思い出は数限りなく体験しているが、最も印象に強く残っているのは、日本の戦況が極端に悪化し、国民総兵士・国土総戦場の軍部意識の高まった昭和18年頃からである。我が国が占領していた数々の海外の領土を失い、海外派遣部隊が全滅したり引き上げたりした孤立無援の状態になった以後からである。昭和6(1931)年の満州事変・昭和12(1937)年の盧溝橋事件当時までの出征兵士壮行会は、日本の勢いが良く別れにもゆとりが見られた。然し16年(1941)年頃から戦線が拡大し戦況が厳しくなるにつれて、笑みは全く消え悲壮感が漂うようになった。それは戦場への派兵は生命の危機が伴うようになったからであろう。一方では兵士を送り他方では桐箱を白布に包んだ英霊を迎える機会が増えたからであろう。幾多の出征兵士を送った中でも忘れることの出来ない程、印象に残っているものは、戦争末期の或る駅頭での送る会だった。それは時が夜間であり、送られる兵士が若く送る家族が老婆であったり、乳飲み子を背負い片手に幼な子の手を引いた若い母親だったからであろう。出征兵士を乗せた軍用列車が駅に入る数時間前から、駅前広場は所狭しと人々が集まって来る。まるでお祭り広場のようである。宵の時間は刻々と迫って到着時刻1時間前ともなると、身動き出来ない程の混雑であり、異様な雰囲気が漂い始めるのも、この会の特質であろう。

 元気で再び故国の土を踏めるやら、今宵送ってくれた身内や親戚・関係者に会えるものやら、全く予想出来ない今宵の別離でもある。我々学生は出征兵士にとっては全くの脇役であり、学校の好意による感謝の送別団体であった。

 列車到着30分前になると開門、不断は(普段は)は入れない構内に案内される。勿論、兵士と関係の深い身内や親族(申告者)が列車に近い最前列に入り、会話を交わし別れを惜しむことになる。勿論、我々は列車から遠い最外側である。やがて列車が入って静かに停まる。開けつ広げた窓から身を乗り出した兵士が妻や我が子を呼ぶ声、乳飲み子を背負い3〜4歳の子供を抱き抱えて父親と語らせる母親、我が子の名前を呼びながら「元気で行って来いよ」と、涙を拭く老母。「あなた行ってらっしゃい」と言葉を詰まらせる若き妻、どれ一つ取って見ても悲しくも切ない別離の光景だった。戦地での惨たらしい一見雄々しい姿に心を奪われ、銃後の悲しく辛い別離を忘れていた矛盾を今思い出し考え直して欲しい戦後の一齣である。今日、イラクへの自衛隊派遣にその姿を重ね合わせることが出来るが、それとて戦争では無いという安堵感がある。

 戦争のない平和な里が理想郷であり、平和こそ次代に引き継ぐ最高の贈り物である。