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35.戦争の悲惨さ忘れずに

さいたま市 杉本貞夫(73歳)

 私はこのころ、静岡の清水市に住んでいました。三保の松原の先に富士山が見え、湾をかこむように軍需工場が数多く並んでいました。

 昭和十六年十二月八日、早朝からラジオで米英両国と戦闘状態の入ったニュースが流れました。戦争が始まると日本軍は次々と勝利し、映画音楽にしても軍事一色になり、戦意高揚の報道ばかりで、子供心に何か国のために役立つ事がないかと思うようになりました。

 現在のシンガポールが陥落して、全国で提灯行列が行われ日本国中が沸き上った時でした。昭和十八年頃より勝利に酔いしれていた日本軍も各地で撤退玉砕が始まり国内は深刻な食糧不足となり物々交換などが盛んに行われました。育ちざかりの子供のための食糧のない中、両親が苦労して食べさせて呉れた事がいまだに忘れられません。通学にも藁草履で、家で私が藁をたたき母が丈夫なようにボロを藁にまぜて作ってくれました。

 昭和十九年十一月三日祝日で生徒全員が校庭に集合している時、青空に一機飛行機雲を引きながら上空にきたころ戦争が始まってから始めての空襲警報のサイレンが鳴りひびきポプラの木の下に避難させられました。

 その後空爆が始まりました。私は募集のあった幼年航空機乗員養成所の試験を受けに東京にきて受験中に爆撃があり神田駿河台から歩いて知りあいのいる芦花公園迄父と二人で路線を頼りに逃げました。この空爆が私のはじめての体験でした。

 清水市にも何回か空爆があり、その度にヒューとうなる音と共に大きな爆発音が強い振動と共に次々と投下されて、くるたび両手で目と耳を押さえ、いつ自分に落ちてくるのではと恐怖心で体が熱く堅くなる思いでした。

 その後夜、焼夷弾攻撃を受け市の中心部はほとんど消失し、私の友人も犠牲となってしまいました。その攻撃の時、隣の3才の男の子を背負わされ布団をかぶり茶畑に逃げこみ攻撃の終わる迄待ちながら不安でいっぱいでした。

 家に帰ると被害にならず良かったと思う気持ちと、夜空を赤々と照らし燃えさかる町を見て辛い思いをしました。その数日後今迄経験した事のない、すさまじい砲撃を受けました。警報もないのに夜突然爆弾の炸裂する音と同時に家の雨戸に破片が当り父が布団を被せ伏せろといい、家族全員一歩も動けず七米先にある防空壕に行く事も出来ません。私は子供心で布団のすきまから穴のあいた雨戸を見ると砲弾が赤い線になって左から右に走っていました。潜水艦からの艦砲射撃だったのです。

 この頃になると日本も空を守る力もなくなっていました。学校の帰り道前方上空できらり光り艦載機がこちらに向かって急降下して来ま した。とっさに道路わきのいも畑にかくれ弾が道路に当り砂ぼこりがあがり、それを見てしばらく動けなかった。

 この様な戦争の悲惨さを皆様に知って頂き二度と起こさぬために過去を忘れず教訓として語り伝えていきたいと思います。