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33.戦時中の思い出

狭山市 三宅淑恵(71歳)

 昭和18年、毎日母達は水を入れたバケツリレーの練習、そして竹槍、今思いば、なんと無駄なことをしていたのかと、でもそのころは必死だったのでしょうね。私は4年生、警戒警報がなると勉強中でも家に帰りました。夜も明るく出来ず電気の傘に黒布でカバーをし、外に光が漏れるのを恐れ、ムードのある食事なんてありませんでした。

 それに23回天皇陛下皇太子のお召し列車が山手線を通りましたときは、お洗濯物も干されず、人も外に出られず、長いサーベルを腰にしたお巡りさんが、道を廻り見ており、列車が通り過ぎると人も外に出られました。

 食卓もお菓子卵等は全部配給でした。でも何もなくとも結構楽しみました。池袋の西武デパートの前に寄席がありまして母のお金をくすねては、悪がきでしたので35銭の木戸銭を払い聞きに行ってました。でも空襲警報も頻繁になり飛行機が上を通るたびにおろおろしておりました。その内池袋も危ないのではと顔を合わせてはその話でした。

 昭和19年だんだん東京も被害が多くなり山手線も一日何回も兵隊さんの列車が通りました。全員で軍歌を歌いながらバンザイと大きな声で言っていました。まさか負けるなんて思っても見なかったでしょうね。そして東京でもあちこちに陸軍病院が出来ました。母の知人も後から打たれ、玉が目を突き抜けて言ったそうです。よくお見舞いに行きました。大きな樽に入っている兵隊さんは手も足もない方でした。子供の私でも涙が出ました。

 19年の夏、私達は飯田橋に近い父の店に越ました。裏に神田川そして靖国神社、そのうち学童疎開で宮城県に行くことに、でも私は結膜炎にかかり第2次という事になりましたが、私はその結膜炎で命をお助けられたのです。というのも、第1次で出かけたお友達が何十人もお骨で帰ってきたのです。仲の良かったお友達は弟と一緒にお骨で帰ってきたのです。叔母達は毎日泣いていました。2人の子供がなくなったのですもの。結果はなんと栄養失調だったそうそうです。「お米、お魚たくさん食べてね、後から行くわよ。」私はそう言ったのに、それで疎開は取りやめになり縁故疎開ということになりました。でもその頃は毎日のようにB29が空に広がり火災が多く焼け死んだ人たち、機銃掃射で打たれて死んだ人たちが大勢出ました。

 10月、11月、12月と毎夜、私達は靴を履き救急袋と防空頭巾を肩にタスキにかけ朝まで寝ていました。いつ空襲が来て起こされてもいいように、でも夜になると焼夷弾がひっきりなしに神田川に落とされると家の中が真昼のように明るく、いつ自分の家に落ちるかと生きた気持ちもありませんでした。そばに靖国神社があったため集中的に落とされたのだそうです。でも結局は20年の終戦まぎわに焼け野原になってしまいました。

 あれから60年経ったのに今でもテレビでも映画でも、戦争映画は見たいと思いません。