ホーム  > 平和のための戦争体験記 目次  > 32.風船爆弾と学徒勤労動員

32.風船爆弾と学徒勤労動員

庄和町 鈴木久雄(77歳)

中国(当時支那という)での戦闘が勝利に沸くとき、私は粕壁中学に入学、巻脚半姿で自転車通学をした。2年生から教練という科目があり将校が先生です。鉄砲を担いで、野田市の清水公園まで夜行軍をしました。体が痩せていたので全くきつかった。4年生の終わりごろ学徒動員となり、大宮市に出来た造兵器廠で働くことになる。初めて図面をみた。○秘○ふと表記されていた。部品の検査係に配置されていすでの作業で大変軽労働の毎日でした。私達は行員と混じって4人でマイクロメーターや結合検査で1年も同じ部品でした。よくこれほど作るのかと思いました。平和資料館などが出来て初めて知り資源が尽きた苦肉の策だとしみじみ思う。

 上空1万メートルの偏西風に乗せて雨以下本土への風船爆弾は約9,300個、アラスカ〜アメリカ〜メキシコまで285だけ到達したと、高度保持は砂袋を自動落下させる高度技術。多数の信管で風船を破り投下するものだった。

 風船は埼玉の数女子中学生で、13歳の子供も木枠の運搬で働いたし、風船には小川町の細川紙でと埼玉が製造所だった。

 これの作戦費用が2億5千万で当時としては総力をかけたが、今考えると空しさだけが残る。この工場で同職場で東京から来ている工員が、亀戸の大空襲があったとき、夕べはひどかったと涙声で、火と煙から逃げて地下道へ駆け込んだ人はみんな死んだと、爆撃は夜だから我が家からきれいに見える。 焼夷弾だから10個ほどに分かれて火がついて落ちる。すると一面が火の海となる。夜の空襲だから欠かさず眺めた。本土決戦と叫ばれ女子青年は竹槍使いの訓練を積んだ。鬼畜米英といい、米軍が上陸したら全国民は決死で戦うと命令のように話された。上から説明は絶対の義務と国民は信じていたのです。

 我が家では予期しない召集令状が来ました。私の父です。近くの村の教師でしたが、体は兵士であり第二国民兵としてです。ところが幸いに大島なので、爆撃もなく終戦となり早く帰れた。柏中卒業は敗戦の前3月、男手がないので、直ぐ母に習いながら農業を始めた。この年19歳兵役が計画された。

 戦争はすべてを破壊し、国民の命を奪う。困難な問題があっても武力は使わないこと、軍縮こそ大事です。