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28. 7000の島国、フイリッピン

行田市 佐藤祐治(72歳)

 東京都千代田区の、農産物、食品類の貿易専門商社の農産部主管となった私は、1961年、当時まだ日本市場を独占していた台湾産バナナ、パイナップル等に反論出来る産地を探り、更に又、パパイヤ、マンゴーなど熱帯/亜熱帯果実の日本への輸入可否を研究していた。これらは我が国植物防疫法上我が国への輸入は禁止されている品目である。だが、例えばバナナの場合、我々日本人は、台湾のラカタン種に慣らされそれしか知らない。中南米で量産される大型のグロス・ミッチェル種はどうなのか。パインについても然り、台湾の在来種よりハワイ或いはミンダナオ島のスミス種の方が糖度も高く品質的に優れている。同じ外貨を使うなら、より美味しいもの、安いものを輸入すべきではないのか。

 そのような感慨を持って、1961年夏、私はマニラに旅立った。植物防疫法上我が国には存在しない地中海ミバエ、ウリミバエ、ミカンコミバエ等の害虫の外、土中に潜むネマトーダ等の線虫類の付着侵入は許されない。それらの調査、解禁条件等の相談で当時の農林水産省植物防疫課に日参した。

 ご承知の通り熱帯/亜熱帯植物の輸送には、当然冷房/冷蔵スペースが必要である。ところが当時、我が国には肉、魚等の冷凍運搬船はあっても冷房船としては鳥羽の「第21大盛丸」だけであった。その後「第52大盛丸」及び川崎汽船所属の「エクアドル丸」が建造されたが、そのような状況下、私はフイリッピンの船会社、コンパニア・マリテイマの冷房船スペースをチャーターする合意取り付けに成功していた。

 PAL(フイリッピン航空)機にてマニラ着、当夜はフイリッピナスホテル(当時のハイクラスホテル、その後火災で壊滅)に投宿。翌朝、マリテイマの内航船でマニラからミンダナオ島のカガヤンデオロへの船旅についた。

 ここでご了承頂きたいことがある。小学、中学を神奈川県横須賀市で過ごした私の同窓会機関誌に、要請により投稿し、活字となった紀行文がある。「海往かば」と掲題した。それを転記させて頂くことを許されたい。

 「海往かば」 (昭和59年10月、浦郷通信第4号)

 職業柄、海外を飛び歩く機会の多い私に、真実、反戦を誓わせた旅がある。未だノーキョーさんやヤング等の団体ツアーが登場していない昭和36年、私はフイリッピンの首都マニラから5−600トン程の小さな内航船で、ミンダナオ島カガヤン・デ・オロに向かった。2泊3日の船旅であるが、途中あのコレヒドールやレイテ島、更にはあのマゼラン卿落命の地、セブ島に寄港する等変化の多い航路であった。私は船長と同格のシャワー付きのキャビンを与えられ、快適であった。

 毎夜、狭い甲板で映画会が開かれるがその初日、私は好奇心から覗いてみた。船底の、蚕棚のような3(4?)等客室は人と鶏、豚の混住区であり、異様な臭気と共にそこからゾロゾロと出てきた船客で、甲板は満員であった。2メートル4方程の小さなスクリーンの映像は暗く、しかも現地タガログ語故、私にはサッパリ分からなかったが、なにやら戦争ものをやっていた。ふと気付くと、私は数人の男に取り囲まれ、甲板の隅へ連れて行かれた。彼等は口々にわめきだしたが現地語と強い訛りの英語のため、初めは何を云っているのか理解出来なかった。が身振りなどから、「お前は日本人だろう」、「俺の親父日本兵に殺された」、「俺は一家皆殺しにされた」等など。

 外国人船客は私一人だけ、しかも逃げ場のない海の上、私は必死に「私は当時は子供であり、戦争は知らない、無関係である」と強調、更にフイリッピン発展の為、経済交流の一環としてここに来ている旨、熱弁を振るった。漸く彼等は納得し握手を求めてきた。私は別れ際に、彼らに乞われるまま、又日本軍国主義の罪滅ぼしのつもりで、持ち合わせていたタバコ、ライター、ボールペン等を分け与えた。

 夜遅くなって、止めどもなく涙が流れてきた。

 冗談じゃない。「俺の親父だってサイパンで殺されたんだ。軍人じゃない!、民間人だったんだ、同じ犠牲者じゃないか!」

 私は自室から空きビンに水を汲んで甲板へ戻ると、親父が好きだったウイスキーと水を、交互に暗い海に流し込んだ。そして静かに、「海往かば 水つくかばね・・・」と口ずさんだ。
 何回も何回も。 涙は止めようがなかった。
 南西の水平線上に南十字星が紅く光り、時折稲妻が走った。

 船はミンダナオ島カガヤン・デ・オロの一つ手前の、イリガン港に寄港、私は此処で下船、埠頭近くの小さなホテルにチェックイン、案内された部屋に通されて驚いた。なんと、天井にヤモリが這っているではないか。ボーイに聞くと、どの部屋もそうだと云う。サソリでなくてまだ良いのかも知れない。とりあえずそのヤモリを追い出し、ホテルの内外を散歩することとした。

 やがて電話が鳴り、マリテイマの担当者が明朝迎えに来るという。当夜は一人でホテルで食事をすることとしたが、たまたまイリガン市のライオンズクラブの会合があり、そのメンバーの人達と交流することとなった。余ほど日本人が珍しいのか、次々と話しかけられ、お相手し、疲れきってしまった。

 翌朝まず市役所に挨拶に行く。そこで担当官が運転するジープに乗り換え、バナナ、パイン農場へ案内されるのである。

 担当官はいきなり「ミスターサトウ、ピストルは使えるか?」ときた。何のことやらよく分からなかったが本人は腰に拳銃を下げている。聞けば行く手には、モロ開放民族戦線のゲリラが出没しているという。コンソールボックスに私用の拳銃を一丁入れ、イザという時には使えと。いやはや大変な所に来てしまったな、と考えてももう遅い、腹を決めてジャングルに突入していった。途中何羽かの路上の鶏を跳ね飛ばし、真っ赤に錆びた空き缶でココ椰子のジュースを飲み、目的地に一応到着した。もう100キロちょっとも行けば、木材積み出し港で知られるザンボアンガである。

 現地民族資本によるバナナ及びパインの農場を一通り視察し、生産出荷状況、価格等を聞いた。期待とは異なり、生産量は年々減少しているという。というのは、巨大市場であるマニラ地区までの輸送経費がアップし、採算が取れなくなり、余り手間のかからぬココ椰子に作付け転換を進めている由。ココナッツオイルの需要が増大し、また、椰子ガラも燃料、道路舗装用などに転用が効くというのがその理由である。バナナ、パインはミンダナオ島最大の都市であるダバオ地区やセブ島に供給しているに過ぎないとのこと。

 余談ながらダバオ市は、明治/大正の頃から日本人が移住し、ジュート麻(マニラ麻)の栽培で成功し、日本人街が出来たほどの都市である。戦後帰国せず、フイリッピン国籍を得て、そのまま定住した日本人が多数居住している、と聞いた。

 当てが外れたような気分で再びジープに乗り込み、イリガンへ戻った。日没後はゲリラの危険が増す為、早めに切り上げざるを得なかったのだ。翌朝はマリテイマの貨物船に便乗し、カガヤン・デ・オロに向かった。カガヤン・デ・オロ港は米国資本のデルモンテ社が築造した、小さいながらも頑強そうな桟橋がある。上陸後案内されたのは矢張りデルモンテ社のパイナップル・プランテージ及びパイン缶工場であった。私の目的には結びつかぬので、適当にして引き揚げた。戻り船を桟橋で待つ間、特記すべきことがある。パイン缶積み出しの準備をしていた作業員の中から、50−60歳の一人の男性が「火を貸してくれ」と、タバコをくわえて近かずいて来た。ライターで火をつけ、ジーと見つめ合った。「あなたは日本人ではないですか?」と聞くと、「オー・ノー」と云いながらも目が頷いているのを私は見逃さなかった。「これ知っているでしょう?」と、彼の手のひらに仁丹を10−20粒乗せて舐めてもらった。彼は「メントール、メントール」と云ったが、私が「オー、ジンタン、ジンタン!」と云うと、一寸考えて思い出したらしく、「オージンタン、・ジンタン!」と叫んだ。そして更に「キッコーマン、キッコーマン!」等、すっかり打ち解けてくれた。

 と、「ミスターサトウ、カムヒヤー」と桟橋の付け根を一寸離た、岸辺の山裾に案内してくれた。なんとそこには、朽ちかけた塔婆が7−8本立っているではないか。聞けばこの沖で、米軍機により撃沈された日本海軍の船の乗組員11名が、此処で自決したとのことである。線香も蝋燭も持ち合わせていない私は、ただ手を合わせ、故人の冥福を祈るだけであった。案内してくれた作業員は、沖縄県出身の人であったが、絶対に口外しないでくれと頼まれ、約束したので、私は誰にも語ったことはない。バレれば彼は失職するというのだった。

 色々な体験はしたが、仕事面では余り成果はなく、イリガンに戻った私は、翌日イリガン空港よりPAL機でマニラに戻り、マリテイマ本社要人との今後の課題討議と、日本大使館、JETROマニラ事務所、関係商社支店等を挨拶訪問に2日程を要し、再び香港へと飛び立った。

 400年もの間、スペイン、アメリカ、日本に支配され、戦後再びアメリカの事実上の支配下となった島国フイリッピンの、そして残留日本人の、過去、現在、そして未来を色々と考えているうちに、猛烈な睡魔が襲って来た。