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27.キャハン忘れて死のバッター

川越市 鈴木正昭(75歳)

 太平洋戦争も敗戦間近になった、昭和19年12月、私は当時、国民皆兵と持ち上げられた国の方針に基づいて、14歳という若年で、海軍飛行兵を志願し、松山航空隊に入隊しました。

 やがて、3ヶ月の新兵教育を終了するころ、松山航空隊は、アメリカの艦載機によって猛烈な空襲を受け、兵舎も私物もすべて焼失しました。そして1ヶ月ほど私達は、山麓に掘られた防空壕で暮らしました。そして間もなくまだ工事中の岡山県の倉敷航空隊へ転属させられたのです。そこでは毎日が石や土をモッコという縄で編んだ運搬具で、防空壕作りの土科連を続けました。

 しかしこんな暮らしも2ヶ月とは続きませんでした。再びアメリカの艦載機が襲って来たのです。再度の丸裸です。私たちは何日野外のテント暮らしをしたでしょうか。すると今度は当時日本の植民地であった、朝鮮の鎮海海軍航空隊へ、守備兵として派遣する、という命令が下ったのです。

 6月初旬の暗い夜、私達の隊は二隻の貨物船に分乗して、下関から釜山に向かって出港しました。途中別の船はアメリカの仕掛けた機雷に触れ、沈没し、同期生十数人が帰らぬ人となりました。幸か不幸か私達の船は、翌朝釜山に到着し、直ちに鎮海航空隊へ、列車で運ばれて行きました。ここでの寝ぐらは、当地の日本人女学校を開けさせた教室でした。ただしその女子学生たちはどうなったのか、私たちには何の報告もありませんでした。

 まもなく私達は航空隊の守備任務ということで、沖合い10キロほどにある小島に配属になったのです。ここでの作業は、アメリカ軍の上陸に備えての、迫撃砲の陣地作りでした。私にとって生涯忘れることのない出来事にぶつかったのです。

 その日も私は作業を終え、泥だらけの足を洗って、自分の班へ帰りました。しかしそのとき私は、キャハンを片方その場に置き忘れたことに気付かなかった、そして唯一楽しみの夕食に入りかけている時でした。班長係りから「鈴木、ちょっと班長のところまで来い!」という声がかかったのです。私は何事だろうか?と思いながら、班長室に出向いたのです。するとそこに、顔を真っ赤にしたY班長が、私をにらみつけて立っていたのです。私はその形相に一瞬たじろぎました。すると班長は、声もなく私の耳をつかんで、班員みんなのいる前へ、引きずっていったのです。そして私は、その場で、班長により、バットによる罰則を喰わされたのです。5発6発までは意識がありましたが、後はもう意識を失っていました。後で同僚の弁によれば、25発以上はぶたれただろう、ということでした。

 私はその後10日間、起き上がることは出来ませんでした。同僚の手厚い看護で、私は一命をとり止め、間もない終戦により故郷に生きて帰ることが出来たのでした。

 二度とこんな目に遭いたくありません。