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26.吹けよ神風〜学徒勤労動員の記録

熊谷市 寺山純子(77歳)

 昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発のニュースは真珠湾攻撃の軍神の活躍と相まって日本中を沸き立たせました。その後の日本は「鬼畜米英 打ちて止まん」「欲しがりません勝つまでは」の標語も勇ましく、日本中が軍国主義一色に染まり、私達も次第に軍国少女と変わっていきました。

 戦争が長引くに連れ、国民の生活も逼迫し街の商店からは品物が影を消し、食堂、喫茶店も閉鎖して来ました。

 そんな昭和19年4月、とうとう私達女学生にも、学徒勤労動員令が発令になりました。学校の勉強を一時お休みし、軍需工場で働いて、お国のお役に立つようにとのお達しです。

 早々秩父高女では講堂に工業用ミシンを入れ、朝霞被服廠の傘下に入り、4年生全員がここで、兵隊さんの上衣(シャツ)袴下(ズボン下)を縫製することになりましたが、当時は英語は敵性語とよばれシャッツのことを上衣(じょうい)と呼ばされました。

 白い鉢巻を締め、モンペズボンに足袋を履いて、時には「同期の桜」の歌を、時には「予科練の歌」を口ずさんで、海兵の生徒や、予科練の生徒に密かな憧れを抱いたりしました。当時私たちが歌いたかった「四葉のクローバー」や「流浪の民」など西洋歌曲は禁止されており、シュ−ベルトの「野バラ」はドイツの歌だからとわずかに歌って良い事になっていました。

 被服の仕事は流れ作業で、毎日何枚仕上げたとの報告もありましたので、自分のところで遅れると友達に迷惑が掛かるので、時には自主的に残業もして、友達と二人で秩父線の終電に駆け込んだり、星空を仰いで帰宅したりしました。

 楽しみの少なかった私達はよく読書をしましたが、新刊はなく、家から日本文学全集などを持ち寄って回し読みをしましたが、学校で禁止されていた恋愛小説は、特に人気があり、私たちは又の本棚から菊池寛全集を持ち出して友達に喜ばれました。

 接吻の 二字に恥らひ工場の 隅でたかぶる 「真珠婦人」よ
 戦争(たたかい)の 眞中に送る 青春は 愛するも愛さるるも 小説(ほん)のできごと

 日本は神国、最後には神風が吹いて、日本は勝利するのだと、この言葉を私達は心から信じて、日々頑張りましたが、8月15日神風は吹くことなく、遂に敗戦となりました。

 敗戦の日を境に日本はがらりと180度変転し、民主主義の国となりました。私は暫らくその変化に戸惑い世の中が信じられなくなりましたが、それを救ってくれたのが、吉川英治の「新平家物語」の中の一説でした。

 「歴史とは勝者が敗者を裁いた制裁の記録である」という言葉です。物事は一方的に見てはいけないという事を教えられました。  学徒動員は日々つらかったはずなのに楽しい思い出となってその後の友情に発展し今でも私の生きる糧となっております。