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25.終戦知らず夜間行軍中、流れ玉を受けて

所沢市 矢沢芳郎(78歳)

 今、私は78歳になろうとしている。そしてまだ生きている。それは昭和2年10月30日生まれであるからです。何故最初にこんなことを書いたのか、あとでわかると思います。

 昭和20年8月13日、突如満州の第37221部隊へ入隊せよという召集令状が関東軍より手渡されたのであった。そのとき17歳の少年であった。満州の本渓湖宮の原という日本人が開拓した町に父と共に住んでいた。

 父は東京と指導局員で技術派遣という名目で満州に行かされたのである。父と水杯をして宮の原ノ町を跡にした。その折、駅のホームの柱の陰で同年輩の彼女が見送ってくれた、泣き笑いとはこのことであろう。汽車に乗り進展につき部隊に入隊した。これで私も日本人としてお役になったと感じていたのである。

 問題はこれからである。8月15日は終戦であったがまったく知らされていなかった。満州内のあちこちで暴動が起きた。我々はまだ小銃等武器を持っていたからいいようなもののその暴動はますます激しくなってきた。特に満州開拓団の日本人が狙われてしまい命からがら逃げのびて汽車に乗ろうと待っている線路脇で殺されてしまい、死骸がごろごろと転がっていた。おまけに衣服も剥ぎ取られてしまい裸のまま捨てられていた。

 私どももいつ狙われるかもしれないので夜間に行軍が始まった。どこへ行くのか皆目わからない。みんなかたまって歩くのみである。いたるところで暴動が起きている。運悪く、流れ弾が腕をかすめてしまい、私はその場にどっと倒れて気絶してしまった。

 そして見えてきたのが川であった。ゆったりと流れている。向こう岸を見たらそれはそれは絵に書いたようなきれいな人々が7人並んで水面に浮かんでいた。私のいる岸辺には渡し舟があり、その船頭さんらしき人が叫んいるのでついぞその船に乗ってしまい舟は岸から離れた。向こう岸を見たところ、女の人6人男の人1人、なんとまあ美しいことなのか、するとみないっせいに早くこちらへ来なさいと手で招いている。私も早く行きたくてたまらない。船がちょうど川の真ん中辺まで来たときである。一転俄かに曇り、空は真っ黒になって大粒の雨が降り出し、それに暴風も加わり船頭さんもいなくなり船はもと居た場所にたたきつけられてしまった。はっと目を開けると、真っ黒い顔が目をぎょろぎょろつかせ私の顔を覗き込んでいた。その間まさに数秒間であったと知らされた。これで生きかえったのであった。暑さも寒さも彼岸までといわれているが私からみると生きるも死ぬのも彼岸で決まるといいたい。

 問題はこれからである。負傷して部隊とともに行軍していたら突如ソ連軍の戦車に取り囲まれてしまい、武装放棄して捕虜になってしまった。蓁天から貨物列車に乗せられ国境の町孫呉に集結させられ一カ月位居て、スンガリ側を渡りソ連領のブラゴエチェンスクに連行されたのである。貨物列車に乗せられシベリア鉄道にて、バイカル湖を通り、ノボシビルスクを経て、ウズベツクの首都タシケントに着いて、3年間重労働に使われてしまった。

 (この後は後日談です。)