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23.水探しの父と別れたままに

白岡町 中川俊彦(68歳)

 1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃を契機に、太平洋戦争が勃発した。開戦当初は日本は戦いを有利に進めたが、早くも半年後には米国は反攻に転じ、当時、日本が実質的に支配していた(国際法的には、国際連盟−現在の国際連合の前身−による日本の委任統治領だった)サイパン島への米軍の攻撃が始まったのは、1944年6月の始めだった。現在のサイパン島は、日本人も多数訪れる観光地となっているが、この米軍による攻撃で、島全体(面積120ku)が、在留邦人2万数千人を悲惨な戦闘に巻き込む初の地上戦の戦場となった。(10ヶ月後の1945年4月には、沖縄でも地上戦が始まった)

 当時、父がサイパン高等女学校の教師をしていた関係から、私達家族5人は、サイパン島に住んでいたが、米軍による空襲が始まると同時に、島中央部のジャングル地帯に避難し、米軍による艦砲射撃や機銃掃射を避けながら、狭い島の中を西へ東へ、そして北へと逃げ回った。その内に、食料がなくなり、遂には飲み水もなくなっていった。もともと、サイパン島には川というものがなく、島の数ヶ所に僅かな水量の水源地があるだけで、しかも、その年は雨季になった7月に入っても雨らしい雨が降らず、避難生活を続ける人々の多くは、飢えとのどの渇きで苦しんだ。勿論、私たちの家族も同様だった。

 避難生活を始めてから6週間程経った頃、私達は、数百人位の人達が隠れていた大きな鍾乳洞に偶然辿り着いた。が、そこにも水はなく、2日程して父は水筒を持って水を探しに鍾乳洞を出て行った。が、2日経っても父が戻って来なかったため、もう死んだものと諦め、私達は「海の水でもいいからお腹一杯飲んでから死のう」と鍾乳洞を出ることにした。ところで、一歳半の下の妹は母がおんぶし、国民学校2年生(7歳)だった私は自分一人で何とか歩くことができたが、4歳半の上の妹は栄養失調による衰弱が激しくてどうすることもできず、鍾乳洞に置いて行くしかなかった。

 私達3人は、夜になるのを待って鍾乳洞を出た後、辺り一帯を真昼間のように明るく照らし出す、米軍の打ち上げる照明弾を避けながら歩いている内に、偶然に山小屋を見つけ、そこで、一夜を明かしたが、翌朝、米軍に捕えられ、島の南西部に作られていた粗末な民間人収容所(キャンプとも言う)へ入れられた。

 それから数日後、鍾乳洞に置いて来た上の妹が米軍のジープに乗せられてキャンプへやって来た。妹の話によると、その日の明け方、父が妹をおんぶして歩いていた時、突然、パン!という銃声がして父がその場に倒れ「お父さん、お父さん」という妹の呼びかけに、父は「ハーイ」と小さい声で一回返事をしただけで、そのまま動かなくなってしまった、という。私達が鍾乳洞を出た後、父がそこへ戻って来たのだった。家族のために危ない思いをしながら漸く水を探して戻って来た鍾乳洞には、妻と子供2人の姿はなく、衰弱し切った娘が一人だけ置き去りにされていたことを知った時の父の心情を察すると、61年経った今でも涙がにじんで来る。そして、残されていた娘をおんぶして再び鍾乳洞を出て、妻子3人の姿を探し求めて危険の多い山野をさまよい歩いたに違いない父の姿を想像すると、またしても涙が出て来る。下の妹は、折角キャンプに収容されたというのに、その2週間後に栄養失調のため、僅か1年半の短い人生を終えた。妹は、一体何のためにこの世に生を享けて来たのだろうか、と思う。

 それまで、常夏のサイパン島で平和な生活を営んでいた在留邦人2万数千人の内、前述のような、米軍による空襲や艦砲射撃、「バンザイ・クリフ」など2ヶ所(注)での3千数百人に及ぶ集団自決(集団死と呼ぶ人もいる)、避難中の負傷や病気、栄養失調等により、その約半数の人々が無念の死を遂げた。

(サイパン戦での戦没者は陸海軍兵士約44,000人の内、約42,000人、民間人約2万数千人のうち13,000人の計約55,000人とされ、一方、米軍の戦死者は約3,400人。なお、太平洋戦争での軍民合わせた日本人戦没者の総数は、広島・長崎での原爆や国内での空襲による犠牲者を含めて約300万人とされている。)

(注)「バンザイ・クリフ」などでの集団自決について

 1944年6月15日、サイパン島南西部4ヶ所に上陸した米軍(最終的には7万余人)の攻撃によって、ジリジリと島の北端に追い詰められて逃げ場を失い絶望した民間人達は、7月の8日から9日にかけて、「生きて虜囚の辱しめを受けず」という「戦陣訓」(これは、東條英機陸相が、戦時における陸軍将兵の心得を訓示したものだったが)に忠実に従い、投降を呼びかける米軍に背を向けて、太平洋に面する断崖の上から80m下の海へ、家族同士手をつなぐなどして身を投じて集団自決した場所の一つがバンザイ・クリフ(BANZAI・CLIFF バンザイの崖)。戦前は北岬と呼ばれていたが、集団自決する人々が、「天皇陛下万歳!」と叫びながら海へ飛び降りたことから、戦後、米軍兵士達によって、「バンザイ・クリフ」と名づけられ、今では、これが一般的な呼び名となっている。(なお、人々が海へ飛び降りるときの姿が、丁度、バンザイをしているように見えたことから、その名がつけられた、とする説もある)

ここでは、その他に、手榴弾による自決、青酸カリによる服毒死、などを含めて、約2,000人が死亡したとされている。

 集団自決があったもう一つの場所は、スーサイド・クリフ(SUICIDE・CLIFF 自殺の崖)。戦前はマルピ山と呼ばれていたが、バンザイ・クリフより約1q南にある、その山の文字通りの北の外れは、標高250mの殆ど垂直に切り立った断崖絶壁になっていて、その150m直下には、岩場とそれに続く樹林が広がっており、人々はそこへ身を躍らせていった。ここでの死者も(バンザイ・クリフでと同じように、手榴弾などによる自決を含めて)千数百人にものぼるとされている。

 上記2箇所で集団自決があった7月の初め、私達の家族はまだ其処よりずっと南のジャングル地帯を逃げ回っていた時期だったので、それらの悲劇には巻き込まれずに済んだ、と言えるのかもしれない。