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20.戦争の恐ろしさ

さいたま市 益岡敦子(76歳)

 私が小学校3年生の時に支那事変が始まり、物心ついた時から戦時色一色の中で育って来た様に思われる。出征兵士のいらっしゃる日には授業は二の次、全校生徒で日の丸の旗を振り「勝ってくるぞと勇ましく」と軍歌を歌い乍ら駅迄御送りした。

 作文の時間には「戦地の兵隊さんに送る手紙」を書き、図書の時間は「兵隊さんに送る絵」、裁縫の時間は慰問袋に入れるお守り袋、小さい人形等の製作等に明け暮れた。

 大東亜戦争が開戦した頃は高学年になり、農村地帯であったので、手不足の出征兵士の御宅への勤労奉仕に駆り出された。

「勝つ為に」のみの教育方針、「戦地の兵隊さんのご苦労を思え」「無駄を省け」であった。受持ちの先生から冗談に「日本の国が負けても良いと思う●●ん坊は国債を買わなくてもよろしい」と言われ、クラス毎に割当てられる国債を先を競って購入した。

 食糧も衣類もすべて配給制度になり、衣料切符等も「使わずに国に返せば日本は勝つ」等とも言われ、使わずに返した人は表彰された。作文の時間に書いて戦場に御送りした慰問文が兵隊さんの手に渡り、返事が学校宛に届くと先生が皆の前で読んで下さり、教室の後ろに貼り出して、休み時間に皆で読んでいた。

 戦局も日毎に烈しさを増し、勝利を重ねて来た日本軍も不利になっていたが、只勝つと信じて疑わなかった。

 食糧難も日毎に厳しくなり農村地帯は買い出しの人で溢れていた。

 進学をしても学徒動員として駆り出され、勉強は出来ない時代、手不足の農村、止むを得ず進学を諦め生家の農業に従事した。

 配給の肥料は不足、厳しく割当てられた供出は完納しなければならず、朝星夜星と寝る間を惜しんで働いた。疲れ果て、何も考えられない時、私の学生時代の文集を受け取って下さった兵隊さんからの便りが唯一の慰めであった。どんなに眠くても兵隊さんからの御手紙には必ず返事を書いた。ポストに軍事郵便の入っていた日は本当に嬉しかった。

 唯一つ今になって心残りなのは戦艦大和の乗務員の方に返事を出さなかった事である。海軍の方は「○○港気付」と書いてあるのに、只戦艦大和と御名前だけきり書いて無かったので、子供心に「船の名前だけでは着かないであろう」と思ってしまった。後で海軍の方に御聞きすると「船の名前でちゃんと着く」との事であったが、残念乍ら、その時は大和は尊い3000名の命と共に海に沈んでしまった後であった。民間には何も発表されなかった様である。此の戦争で、大勢の人が犠牲になった。だが日を追う毎に戦争の悲惨さを知る人が少なくなってしまうと思う。憲法の改正等が叫ばれているが、二度と戦争は起こしてはならない。私のこれからの人生、是非、平和な世界を生きて行きたいと思う。