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19.帰還

さいたま市 新井龍男(87歳)

 昭和17年4月13日の深夜、北満のソ満国境に近い駐屯地の各部隊から、長年の任務を終えて、内地に帰還する兵員を乗せた臨時列車は、暗闇の中を港大連に向かってひた走っていた。

 車内は警備の不寝番が起きているだけで、後は皆ぐっすり眠っていた。

 突然ガタガタという異様な音がして、車内がひどく振動しだした。そして列車は急停車するところであった。

 皆、目が覚めて辺りを見回したが、窓によろい戸が占めてあり、外を見ることは出来ない。開けることは禁止されているのだ。

 車両は急に傾きながら崖下へ滑り落ちるような感じで、やがて傾斜したまま停止した。列車が脱線したことを感じた。

 まもなく指揮官からであろう、国賊の攻撃があるかもしれないから注意するようにと車内に伝達された。

 帰還兵が持っている武器といえば帯剣だけである。その他には小銃が各車両に二丁ぐらいある程度である。もし小銃や機関銃を装備する多数の匪賊が攻撃して来たときには、肉弾戦の他はないと覚悟した。

 われわれは静粛して周囲の様子をうかがっていた。しかし匪賊の襲来はない模様だとわかり線路上へ出た。

 まだ夜明けには間があるのであたりは真っ暗闇である。鉄道のレールだけがわずかに白く見えるのであった。鉄道は、土堤のように高く盛り上げた地盤に敷設された直線コースである。

 こんな場所でなぜ脱線したのだろうかと思ったが、やがてその原因は、線路の犬釘が多数引き抜かれていたことであるとわかった。

 たぶん匪賊の謀略であろうと思われた。軍用列車の通過時間が漏れていたということは、彼らの諜報網が広範囲に活動しているということになる。

 闇になれて、列車の脱線状態がわかるようになった。私の乗っていた車両は、前から三両目で土堤を斜めに落ちてとまっていた。直ぐ後の車両は、脱線しているが土堤から落ちてはいなかった。二両目の車両は土堤の下に落ちていて、線路が車両の床下から天井に突き抜けて、その先端が空に向いていた。

 帰還兵から死者は出なかったようである。

 脱線現場からさほど遠くないところに我が軍の兵営があるので、われわれは其処へ一時身を寄せることになった。間もなくわかったことであるが、偶然にもその兵営は、私が初年兵時代に過ごしたところで、この辺は私の所属部隊が駐屯していた泰安鎮と言う土地であった。満州事変における激震地でもある。

 私ははからずも懐かしい兵営で、再び臨時列車を仕立てるまで過ごすことになった。数日後、泰安鎮を出発した列車は一路南下しつつ、斎斎吩繭、白城子、四平街、秦天寺を通過して、深夜の南満を走っていた。

 兵隊達は皆眠っていた。突然私と並んで腰掛けていたMがウーウーという呻き声を挙げたので、私は目を醒まして隣の彼を見ると、喉に銃剣が刺さっており、その刃を両面から手で押さえ保持している恰好であった。その柄を持って彼の前に茫然と立っているのは、向かい合って腰掛けていたNであった。周囲の者のもすぐに気が付いた。皆でNを取り押さえると同時に、Mの喉から銃剣を抜き、直ちに衛生兵を呼んで応急処置をした。

 傷の程度はよく解らないが、ただ安静にさせて次の処置を待つばかりであった。輸送し機関は、病院のある町に列車を臨時停車させ、Mを病院に移送する手筈をした。指定の駅に到着すると、付添えの衛生兵と下士官を同行させ、緊急に病院は収容させた。

 Nは古参兵になってから、時々行動に異常があったことを大抵の者は知っていた。然し刃物を持ったり、乱暴したということはなかった。今度の出来事は病気による発作的な行為だろうと思われた。MとNは不仲でもなく、彼 を刺す理由は何もなかった筈である。従って、たまたま向き合っていたものが運悪く被害を受けたということであり、斜めに向き合っていた私は、危うく難をまぬかれた訳である。

 幾日もかかってようやく大連に到着したが、私達数名のものは、車中事件を処理のため、憲兵隊に行き加害者の引渡しを行わねばならなかった。

 憲兵隊にいるとき、別室から英語の大声が聞こえた。外人らしかった。多分何かの理由で取調べを受けているのであろうと思われた。

 われわれは内地に向かって乗船するまで当地で宿泊することになった。

 大連に10日以上も滞在し、やがて輸送船の出航準備が出来たので乗船し、長い外地での生活に別れを告げ港を離れた。