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18.忘れられない3月10日

飯能市 船橋久子(79歳)

 今から60年前の3月10日未明の東京大空襲のこと、薄れた記憶を辿りお伝えします。

 当時私は雑司が谷にあった帝国(東京)大学医学部付属病院分院の内科病棟看護婦として夜の勤務についていました。

 毎日毎晩空襲警報発令のラジオ放送におびえ乍らの落ち着かない勤務で40名程の患者さんを昼間は7・8人でお世話しますが、夜は二人でしますので重症の方が二人もおられますと、痛い、苦しい、注射お願いのナースコールに追われ通し、あわただしく朝の交替の申し送りカルテに書込み、やっと東の空が白味かけた頃、空襲警報の不気味なサイレンと共に、いきなり窓ガラスに目もくらむ程の閃光がバシ―ッと走り、咄嗟に「照明弾だー」と声を上げ、目を覆いしゃがみ込みました。間髪を入れず次々落され異様な明るさが闇を照らし、目標を定めてから、今度は焼夷弾です。不気味な光を帯びた鉛色の物体が、まるで雨霰の如くボタボタというか、バラバラ斜に連なって急降下し炸裂するのです。すると、すぐ火の手が上がり町はまたたく間に一面火の海と化し、吹いて来る風はいやにモア―ッと生暖かく体を包み込み気味の悪いものでした。

 急いで患者さん一人々々の様子を見廻り「落ち着いて、落ち着いて」と励まし乍ら私の声は多分うわずっていたと思います。

 高台にある病院から見える範囲の町全体に炎の大波が這いずり廻り、手のつけ様もなく、病院と道をへだてた向う側の高台は、これ又天を焦がすすさまじい炎がごうごう音を立て、横なぐりの風に流され、隣から隣へ魔の手を拡げ、長―い長―い火の帯となり、柱や屋根、壁のくずれるバリバリドスーンの音と、炎のうなる音にいたたまれず、恐いもの見たさに先輩と屋上に様子を見に行きました。

 あまりのすさまじさに一人では立っていられず、もたれ合い乍ら膝はガクガク、歯はガチガチ、口は開けたま々呆然とするばかり。まるで金しばりに会った様で一瞬固まってしまいました。

 屋上から見える目と鼻の先の町は、あちこち火の手が上がり、いやに騒がしくなり下を見ると、火傷の人や怪我の人がうめき乍ら、泣き乍ら、大声で励まし乍ら、病院へ続く坂道を大八車やリヤカーでガラガラ音を立て、まだ日の昇らない街を先を争って来るのが、黒い影となって飛び込んで来ました。

 やっと我に返った私達は階段をころげ落ちる様に病室に戻ると、いきなり各科の夜勤者、当直の医師はただちに正面玄関に集まる様指示があり、そこには逃げまどい熱傷を負い、思わず川に飛び込みずぶぬれの人、血を流している人、泣く人、わめく人、うめく人達が我先にと団子状態でつめかけていました。阿鼻叫喚とはこんな時の言葉でしょうか。

 一度に40名程の急患ですから受け入れ体制も不充分で、小児科・産婦人科を除いた各科に振分け、どの科もあわただしく戦闘状態。勿論ベットは足りず、ベットとベットの間の床に布団一枚、毛布一枚、これさえ用意するのにてんやわんや。そこにごろごろ寝かされる人でごった返し、応急処置を始めましたが、何せ空襲中のこと、薄暗い常夜灯では間に合わず、さりとて電気をつければ敵の目標にされてしまいます。そこで懐中電灯で患部を照らし、床に寝ている方を診るのですからスムーズにゆかず、手間取るばかり。其の間あっちからもこっちからも「痛いよー、熱いよー、水、水、助けてー」の大声が渦巻き、皮膚の焼けただれた匂い、焼け焦げた匂い、人いきれが入り混じり、白衣の裾につかみかかる人もいたりして、どの部屋も又々地獄と化し、病室にはいるのが恐い程でした。

 食事は皆一様におにぎりが配られました。賄のおじさん達は急な増員でさぞかしてんてこ舞いだったと思います。

 明るくなってから見た患者さんの顔は猛火をくぐり抜け、どの人も一様に黒こげで髪の毛は燃え、衣服はぼろぼろ、性別判断もつかない有様。朝のおにぎりを有難うと受取った方が、昼には返事がなく、誰にも看取られることなく死んで行かれた方が何人もあり、引取り手のない仏様が霊安室に何体も寝かされる状態が続き、食糧難時代のねずみがその仏様の目や鼻、耳までもかじって、がい骨にしてしまうのです。

 季節は三月、だんだん暖かくなり、ハエが出る様になったからたまりません。ねずみがかじったあとに、ハエが卵を生みつけ、霊安室の床はうじ虫がいっぱいで長靴を履かないとどうにもならなくなりました。思い出すと今でも身の毛がよだちます。

 仏様ばかりではありません。手の甲の焼けただれた方の患部は風船がはち切れんばかりに腫れ、処置のためメスでつつくと何と中からうじ虫が大きな膿盆にいっぱいあふれる程出て来ました。気丈な筈の私も、この時ばかりはさすがに寒気が全身を走りました。

 病院には解剖という医療研究にはかかせない大切な仕事があります。病気は何であれ解剖となれば肋骨を左右斜めに三角に切り取り、そこから内臓を取出し、様々な検査のあとホルマリンにつけ保存しますが、臓物のなくなった空っぽのお腹に古いガーゼを詰め、元の形に戻し縫合するのですが、ペチャンコになった所を修復するのですから、詰め込むガーゼもたくさん必要になります。当時はガーゼもままならなくなっていましたので、古いガーゼはほんの少しで、あとは木の葉を混ぜて元に戻し腹帯で整えます。それも長くは続かず、だんだん木の葉だけになりました。

 用務員のおじさんがにが笑いし乍ら落葉を掃き集めていました。戦中とはいえ、これが身内だったらと思うと余計に泣けてしまい、思わず手を合わせたものです。生きていて見る地獄とは、あの時代のことだったと思います。

 この頃はねずみばかりが飢えていたわけではありません。食料事情は最低の低で、食べ盛りの私達はいつも空腹を抱えていました。一日の食事は大豆を絞って油を採ったあとのペチャンコになった豆かす。現在ではさしずめ豚の餌。それが大部分の豆かす入り丼ご飯にタクアン3切れが朝食で、昼と夜はかろうじて野菜の煮物が色付け、おかざり程度。おつゆは岩塩を溶かしただけの実なし汁。例え実があっても食事時間がずれ込んだ者は、先の人が実をすくってしまうので、いつもごつごつした石ころ状の塩をガラガラかき廻し、すするばかりでした。

 お米の少ないこんな食事でも、週に一回は食べずに残し、白衣の糊づけをしたものです。クリーニングに出せるのは患者さんのシーツだけでしたから。 院内唯一の売店の隣に小さな喫茶室があり、たまたまドライカレー、海ほうめんとメニューが貼り出されるや、我先に出向き食べたものです。ドライカレーは大きなお皿にサァーと一並べ、かき寄せたら大匙5、6杯の量。海ほうめんは正体不明の海の草をどろどろにし、うどん状にした真黒な味も素っ気もない代物。甘辛汁で食べます。まずいとは言ってられません。他に何もないのですから満腹感を味わったことのない私達は先を争って食べました。それも一日精々20人分でしたから中々ありつけず、運悪くはずれた時の空腹感は尚一層強いものでした。

 こんな中でひとたび警報が発令されるや、今じゃ笑い話にもなりませんが、爆弾が落ちても地下室なら何とかなるとの想定のもと、動けない患者さんを担架で避難させることが日課になりました。

 電力節約でエレベーターは殆ど停止していましたから、当然階段を使ってのこと。3階から一日2度3度となるとさすがにこたえました。患者さんの中には「看護婦さん大変だから」と辞退なさる方もおられましたが、万一を考えますと、そのままというわけにもゆかず、地下室への担架運びは何往復する日が続きました。

 今となれば何と馬鹿馬鹿げたこと、原爆一つでめちゃめちゃだったのに、と思いますが、あの時は真剣そのもの、感慨深いものがあります。

 何もかもが節約々々で電気はいうに及ばず、ガスも一定時間しか使えませんでしたので、各科の器物消毒は古い病棟を取りこわした木材を拾い集め、裏庭への出口や地下室で火を焚いて煮沸消毒しました。真黒になった煮沸器を磨いて一日が終わり、お互いの顔の煤を笑い合って、それでも充実した日々に思えました。

 忙しい合間を縫っては裏庭へ集り、来る日も来る日もモップのお化けの様な荒縄を束ねたものに水を浸し、消化訓練・バケツリレーなど、いかにも子供じみたことに精を出し、吹き出したい思いですが、当時は精いっぱい頑張ったものです。

 空襲の回数が増え、巷では飛行機や軍艦もないそうだとか、負けを知らない日本も今度は危ないとか、敗けたらアメリカ人が上陸し何を仕出かすか知れないなど、物騒な噂が噂を呼んで、世の中至る所大変ざわめいていました。

 それでも不服はいわない、我慢々々勝つまで頑張るゾ―と、片肘張って来た青春、思い出したくない青春、一生消えることのない深い傷として持ち続ける。

 こんなこと、もう誰にもしてほしくない、させたくない。心のあざなどはぎ取れるものなら、はぎ取ってしまいたい。60年も経てば大抵の記憶は薄れる筈なのに今尚、あの惨状が生々しく甦るのは、いかに戦争が残酷でむごたらしいか、この一言につきます。 二度と再び戦争は起こしてはならない、絶対に絶対に声を大にして叫びたい。