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16.昭和19年より小中学校の教員の思い出を振り返って

川越市 細田イネ(79歳)

 その一、 「この本もういらないよ・・・。」「高1の算数教科書は、表紙は高1だが中身は小6の内容がほとんど・・・。」「戦争に負けたんだから仕方がない。でも悔しい。去年勉強本気でしたから・・・。」子供たちは仲良しで、決して友達いじめや人笑いをしない。算数の理解がもう一歩の友を、自らの席の横に座らせわかるまで教える。私は謄写版刷りの教材を毎日用意して楽しく勉強した。

 その二、 「いただきます。」ご飯は白いが、梅干一個・赤い生姜がどかんと、昆布の佃煮は上等だ。後ろの方で、背中からおろしたかわい子ちゃんと、紙袋の中からふかしたさつま芋を出して食べてる姉と弟。おや、おかずなしのかと思ったらご飯の下からみそが顔を出す。でも、満腹になり「ご馳走様。」と。

 その三、 川のヘリや道路の両側に、黒豆や枝豆を蒔いた。通学班員みんなで食糧増産の一役をと・・・。また、空き地を耕したり、玄関先の狭いところにも、さつま苗を植え野菜を作り、肥料はびっくり・・・?だって道端から馬ふんを拾ってきたものだ。農家でも肥料は買えないし、配給制だったから。収穫はみんなで行い集会所で子供たちがまぜご飯を作って、ワイワイ笑顔の会食でおいしかった。

 軍馬のえさの草刈は登校前の一仕事。道端や山林の草を、小一のかわいい手にも鎌を持ち、朝露にぬれながら、リヤカーにたくさん積んで、ワッショイワッショイとみんなで学校の庭に運んだ。緑のじゅうたんがきれいだった。班長はリヤカーを家に戻し、朝会に間に合った。怪我も喧嘩もなく、地区担の先生も作業に加わり、朝一汗かいた一時だった。サツマ芋収穫の後の茎集めは、佃煮に加工された。学校帰りの麦踏みは、鞄をしょったままで、力を入れて踏みつけて、空風に吹かれながらも楽しかった。通学路の砂利道を、遠いところは四キロも、はだしで通い夏の体育は足の裏が焼きつくようだった。

 霜柱のでハダシで朝会は、寒さを通り越し、じっとこらえて足の裏がカッカカッとしてきた。よくやらせたものだ。よくやったものだ「玉磨かれば光らず。」「不自由を常と思えば不足なし。」というが、本気になれば、大人も子供も立派なものだ。お互いの気持ちが、積極的な行動となり、その結果身も心も鍛えられるものなのか?・・・と、思い出した。あの時代だったから出来たのだろうか?

 金さえ出せば物が手に入り、おしゃれも自由、うまいものも口に出来る今、昔は昔よと言うが、もったいない、ありがたい、と常に思う自分は、確かに古い人間だ。でも死ぬまで人間は勉強を忘れてはいけないと自分は思う。