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15.終戦の夏

鶴ヶ島市 竹田京太郎(77歳)

 今年は終戦から六十年になる。当時は青春の真つ只中にあったが自由を謳歌する事は出来なかった。只お国の為にと軍務に明け暮れる毎日だった。当時は兵役は義務で私は年齢も若く少年兵として飛行学校に入り航空通信士となった。熊本の菊地飛行場で機上訓練を受け、三月に太刀洗の戦隊に配属された。この戦隊は十九年の台湾沖航空戦で大打撃をうけ後退していたのだ。そこでも落ち着く間もなく私一人福岡の第一航空通信司令部に転出を命ぜられた。蓆田飛行場が仕事場で他の戦隊の間借りだった。飛行機は三機で班員は十五人位だったが、話を聞くと歴戦の生残りの先輩が何人も居た。仕事は無線機や飛行機の整備と傘下部隊との連絡出張であった。

 六月だったか博多が空襲に合った夜はB29の大きいのと焼夷弾の激しさに見とれるばかりだった。この頃デマ放送をコッソリ傍受すると、何日に何処を爆撃するとか、負け戦だとか堂々と流していた。

 この頃になると飛行機も少なく、爆撃があっても避難ばかりだった。早目に警報が出ると朝鮮方面に退避した。博多も焼けてからの外出は行く所もなく、女学校のプールで泳いだり、公園をぶらついたりした。そのような中、大阪方面に出張の命ががあり、先任の無線機の調子が悪く私が代替として搭乗した。途中高松に寄り、離陸間もなく同乗の先輩が「オイ、今貴様の田舎の島の上を飛んでるよ」と言った。ハツと吾にかえり窓をのぞくと確かに見覚えのある岬と山だった。あの岬の向うが故郷の村だと思うと感慨ひとしおだった。それから間もなく八月六日参謀を乗せて広島に出張した飛行機が原爆に合った。当時は新型爆弾との情報だけで皆目安否がわからなかった。何日かして中村さん(操縦士)の避難先から連絡があり、博多の病院に連れてかえった。私と同期のもう一人とが交替で飛行班と病院との連絡係をやった。中村さんは後頭部が被爆してカサブタになり蝿がたかって困った。痛いと唸っていたが、どうする事も出来なかった。隣のベッドには少年兵だろうか、私等と同年輩の操縦士が事故で頭を打ち唸っていたのが憐れだった。

 毎日暑い日が続いた。丁度私の当番の日で病院に居た時、昼頃何か放送があるからと廊下に並んで待っていた。ラジオからの声はクグモリ声でよく聞こえなかったが誰かが「戦争は終わったんだ」と叫ぶ声がした。すぐ飛行場にとって返すと、未だ命令系統が判然りとせずゴタゴタしていた。そのような中避蔽していた飛行機を飛行場に並べた。武装したり外したり書類や部品を燃やしたり、しばらくは右往左往の毎日であった。二十三日に飛行機で復員する事になり、朝、宿舎だった民家の上空を旋回し手を振る人々に名残を惜しみつゝ関西方面に向かった。

 二年足らずの軍隊生活だったが少年時代だったので、その後の人生に大なり小なり影響があったと思われる。今は子や孫にも話す事もなくなったが、戦友の慰霊祭に時々参加して平和の今をかみしめています。

「付記」  二十年四月三十日、B29の迎撃に上がった日本機が被弾し脚折の大野さんの田んぼに墜落した。操縦士(上田)、通信士(篠原)は落下傘で降下。上田さんは助かったが篠原さんは落下傘が開かず戦死された。大野さんは生前よく当時の話をしていました。二人とも私達の先輩です。三十数年来誰云ふとなく出身者が何人か集り、命日には大野さん宅の墓前で供養を行っております。