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9.東京大空襲(龍泉寺)

坂戸市(ペンネーム)ふぁいん(68歳)

 昭和十九年六月空襲が激化して、閣議決定で空襲から学童を守るため、八月から三年生以上は集団疎開か縁故疎開になり、姉二人六年・四年・私二年生が千葉へ縁故疎開した。二日目にはホームシックになり母に迎えに来て貰い東京へ舞い戻った。昭和二十年三月九日には予防接種があり、痛くて腕が上らずランドセルを持てず、夜九時頃一家八人で避難所の国民小学校へ、まん丸のお月様にこうこうと照らされて完備した防空壕の教室に入った。私達は子どもが多いので早目に乗り込み、そのうちにちらほら人が集まって来た。それが東京大空襲三月九日の焼土と化した三十万人が死傷した地獄図の日だ。夜十時頃どんどん人々が入って来て座る隙もなくなって、トイレに行こうと中庭から見えたのは真赤に染まる空、その一筋に黒い天空、それは隅田川の影なのだ。その異様さに母は「さぁ、ここから逃げないと!出よう!」本所深川の方から焼け出されて逃げて来た人達が校門に入って来る、そして出たい人、で動きが取れなくなり、私達がようやく出て間もなくその観音開きの扉は締め切り、その中の人々全員阿鼻叫喚焼死した。

 私達は母が弟一人をおぶり、姉が三歳のでぶの妹をおぶり、次姉と私、妹五歳と伯父とで三輪(ミノワ)の方へ逃げた。途中火に追われた母「どうしたらいいの?どっちに逃げたらいいの」と叫び、母の兄が風上に行こう、でも火で風が渦巻いているので方向が解らない。その時の判断は男の人でないと出来ないと、母はあとでつくづく言っていた。本当に兄ちゃんによって助けられたと。三輪ガード下で弟がオッパイが欲しいと泣いたので、もうどこで死んでも同じだと、そこで乳を与えた。姉はよくぞ度胸があるものだと気が気でなかったと。私達が去った後そこに爆弾が落ちたのだった。

 強制疎開で野っ原となっている所に出て、妹が寒い寒いと泣いてどうしたらいいか立ち止まっていたら、ぽつんと一軒の家「小島両替店」の人が「こちらにお入りなさい、小さい子を大勢ひきつれて大変でしょう」と声をかけてくれて、私達はありがたく感謝し、子どもは羽根布団の中でゆっくり眠りについた。朝起きたら回りは遠くまで見渡たせ焼け棒杭がくすぶり煙を立ち上がらせていた。伯父は竜泉寺の家を見に行き、そこで父と会い、みんなの無事を聞いて号泣した。父は消防班でそこで防火用水にもぐって命を継いでいたのだ。竜泉小学校へ避難した人々は全員まっ黒焦げなので一家ダメかと思っていたので安堵した。姉は布団を被って火の粉をさけていたが強風で飛んでいってしまった。家族八人全員が見失わない様、必死で逃げまわった。米びつの焼けて黒い米をしばらく食べて、疎開先の東京っ子へのいじめを受けての裸足登校で、桑の切り株の所を歩けと言われ、二年間通って東京へ戻って来た。多くの犠牲者の下に私たちは生かされているので、その体験を語り継ぐのが使命です。戦争は悲惨で絶対してはならないのです。