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8.私と坂戸飛行場

坂戸市 真仁田進(旧姓 吉川)(76歳)

 昭和19年3月 坂戸小学校卒業、4月1日より豊岡(現入間基地)陸軍航空仕官学校付き材料廠、飛行機整備工就職し軍属となる。1ヵ月教育され高萩豊岡間は天皇が、卒業式に出席するので行幸道路と言われ舗装道路で楽だが、坂戸からは凸凹道を自転車で通勤した。5月に高萩飛行場に配属され、8月に坂戸に転属、九十九式高等練習機の整備作業だ。

 練習生は他兵科より転任してきた見習い仕官で、教官は少年飛行兵出身の下士官が多かった。11月頃よりB29の空襲が始まり、機数が多く迎撃戦闘機の方が少なかった。ある日海軍戦闘機「雷電」が燃料補給に着陸した4枚プロペラに驚く。搭乗員の大尉がB29がなかなか落ちないと言っていた。20年1月元旦の「元朝式」に士官学校長の徳川中将(大尉時代に日本で一番先に飛行機に乗った人)今後(以後)は全員特攻要員である、そのつもりで日常勤務に励めと訓示された。この頃より空襲がひんぱんとなり3月10日大空襲が始まり、飛行訓練が困難となる。満州で訓練するから日常訓練の傍ら準備をし、4月中旬坂戸・小川町・八王子・塩尻・直江津・富山県高岡市伏木港より出航した。渡された救命胴衣は孟宗竹を6節(前3節後3節)、少し不安だったが誰も何も言わない。

    船中で二泊三日で朝鮮北部羅清(ラシン)港へ上陸し羅清高女へ一泊し汽車で北上する。5月1日温春(オンシュン)基地へ到着する。雪が降っていた。練習生は陸士59期、四気筒の自動車エンジンの羽布張りの2人乗り、前に練習生、後に教官、我々も時々練習した。内地と違い食糧事情はよく特に豚肉はたらふく食べられた。宿舎はペチカが中央にあり6人で使用した。石炭は野積みされてあり大量にあった。夏が短い結いに草が急に伸びる。地面は1メートル下は凍っていた。大陸性気候故直射日光は強く日陰は涼しい。

 7月に入ると何となく騒然とした雰囲気でピリピリする。胸の名札を漢字では現地人に意味が解るのでひらがなを使用。125部隊から25214と変名される。スパイに解らぬため。6月末草刈に来た苦力(クリ)の一人が鉄道自殺した。スパイ容疑で憲兵に付きまとわれていたという。

 8月9日早朝非常呼集がかかり、ソ連が参戦したとのこと、直ちに身の回りを整理し何時でも出発できるよう別命あるまで待機する。本隊は列車で出発、駅より引込み線が基地内まで引き込まれているので便利だ。我々は99式練習機で出発する。もちろん使用可能物は破壊している。防空頭巾、リック姿の日本人が非難してくる。「兵隊さん、一緒に連れて逃げてください」と言われたが、無言で手を左右に振り断りの合図だ。

 8月14日2人乗りの飛行機に3人のって温春基地を離陸し頭化屯(トウカトン)で給油し通化(ツウカ)に着陸、15日正午に重大放送あり全員整列した。ぼろラジオでよく聞き取れなかったが「タヘガタキヲタヘ、シノビガタキヲシノビ」とだけ聞き取れ、気持ちを新たにして新しい戦いをやると意気込み通貨を後にして朝鮮の新議州(シンギシュウ)へ着陸。ここで日本が降伏したと解り現地人は大韓独立と書いた。

 日の丸を半分黒くした旗を軒先に出していた。直ちに駅に集合し列車で釜山港を目指し南下する。釜山到着し輸送指揮官が「内地は食糧不足だから港にある大豆、小麦等を全部船倉へ積み込め」と言われ積み込み、我々は甲板でごろ寝で九州博多についた。

 貨物列車で関門トンネル、姫路、京都から北陸路、清水トンネル、大宮、高麗川で下車、自動車で豊岡へ到着。

 退職金1,857円を受領、昭和20年9月1日に復員した。現在の中学3年、高校1年の年齢だった。

 中国東北部牡丹江省寧安温春季地。昭和19年4月より20年8月末まで。