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7.戦時下の赤い糸の青春〜マサカの坂を転げ落ち続けて60年

坂戸市 大石信孝(85歳)

 あの日の神宮外苑国立競技場は冷雨に煙っていた。出陣学徒壮行会が始まった。国立大学2年在学中の私は銃を肩にして悲痛な面持ちで泥しぶきをあげながら分列行進の中にいた。スタンドには見送りの女子学生。送る者も送られる者も、戦況の不利を思い祖国の前途を思うと悲壮であった。

 まず文系の学生が戦場に送られた。戦況は急激に悪化しつつあった。理系の出陣は延期となり大学へ戻った。翌年、半年繰り上げ卒業、陸軍航空技術幹部候補生として岐阜陸軍航空整備学校に入校した。過酷な訓練が始まった。凍傷で崩れた手の指の傷跡はヤケドのそれに似て今も残る。

 もともと丈夫でなかった。肺も病んでいた。戦病死するかも知れぬ。遺書を書き、髪を切って封に収めた。先に出陣した親友Mの戦病死の報がはいった。Mの両親は涙を耐えて我らを見送ってくれた。軍隊の苛酷な洗礼を無事すませ、任官して名古屋陸軍航空本部に配属になった。同時に軍需省軍需管理官を併任となる。本部は愛知県庁の庁舎にあった。名古屋城の傍を通って毎日出勤した。軍服を着たサラリーマンの態である。

 空襲が激しくなってきた。終戦も近い5月14日の大空襲で市街地も名古屋城も壊滅した。居住先の宿舎も消失。着のみ着のままで逃げ回った。敵機を迎え撃つ高射砲も戦闘機も役たたず。8月15日、終戦。残務整理をして故郷に戻った。

 大学の卒論は半年でまとめた不完全なものだった。卒業前に就職の決まっていた企業では、入社後は大学へ派遣され研究室の助手となることも決まっていた。やり直したいことが一杯あった。しかし、すべては消えてしまった。運命はマサカの坂を転げ落ちはじめた。復員の土産は肺の空洞だった。進行中の肺結核、死の病との戦いが始まった。

 ようやく克服して社会復帰したのは30歳。翌年縁があって現在の妻と結婚した。ある日テレビで学徒出陣のニュース映画を見ていた。カメラがスタンドをパンする。妻は叫んだ。あ、うちの学校の制服、あそこに私が・・・。赤い糸の存在を確信した瞬間だった。学徒を見送ったあとの妻は、軍需工場に動員された。4月の空襲で家は全焼、無一文となった。兄のひとりは比島で戦死。父親は敗戦のショックのまま世を去った、という。

 肺を庇いつつマサカの坂を転げ落ち続けて60年。85歳になった。妻もやはり同じように坂を転げ落ち続けてきたのだろうか。79歳になった。赤い糸の平和の世は有り難い。

短歌 本郷の 校舎の石段 しかと踏み 無事生還の 誓い立てたり 短歌 国破れ 復員したる 我が肺に 鳩卵大の 空洞ありき