ホーム  > 平和のための戦争体験記 目次  > 6.茣蓙(ゴザ)と縄

6.茣蓙(ゴザ)と縄

坂戸市 伊崎秀子(84歳)

 戦時中、私は荷造りで苦労した思い出がある。昭和20年、空襲は日を追って激しくなり、渋谷区恵比寿の我が家には、四谷で3月末に焼け出された親戚6人が同居していた。主人は出征しており、私は母と幼子ひとりを抱えて疎開する決心をした。しかし、食料品から日用品まで物不足のご時世、荷造りに必要な梱包材料が手に入らず困り果てていた。

 そんなある日、会社の昼休みに雑炊食堂の列に並んでいたら一つの光景が目に入った。強制疎開跡の広々とした空地の所々に高く積み上げられた畳が放置されているではないか。私はつい、あの畳表さえあれば・・・、と思った。その晩、私はこっそりと包丁を懐にしのばせて家を出た。昼間見かけた強制疎開の跡をめざして出かけたのである。

 疎開跡は、堀のような渋谷川と都電通りに挟まれた細長い場所で、辺りはしんと静まり返り、水音だけが微かにしている。暗くて足下も悪い。積み上がった畳のところへやっと辿り着き、包丁を握り手を伸ばして無我夢中で畳表をはがす作業に取り掛かった。

 都電が通るとライトで周りが明るくなる。包丁をかざし畳表を必死にはぎ取っている自分の姿が、その光に照らし出され、思わずゾーッとした。それからは都電が近づくたびに畳の後ろに身を隠した。出たり隠れたりの作業はなかなかはかどらず、三枚もはがしたら、くたくたになってしまった。はぎ取った側を下にして畳を積み直す。野ざらしになっていた畳の重さがずっしりと肩に掛かり、積み直しも一人では骨の折れる作業であった。私ははぎ取った三枚の茣蓙を巻いて横抱えにすると、暗い道を選びながら家に戻った。茣蓙は日を追うにつれて増えていった。

 次いで縄集めの日々が始まった。勤務先には、製品荷造り用の一巻き一抱えもある縄が、でんと荷造り部屋に置いてある。だが、社用の縄を戴くわけにもいかない。私はこまめにその辺りをウロチョロして、使い捨てたものや、切れ端などを集めて歩いた。

 また、会社の帰り道で、時々空の荷馬車に出会うことがあった。私は、その荷台に縄が載っていると後を付ける。人通りの無いところで縄の端をつまみ上げて足下に垂らして踏むと、縄は馬車が進むにつれてスルスルとまっすぐ延び、すかさず私はそれをたぐり寄せ、頂戴するのである。落としていったものを拾うのだから‥と、自分に言い聞かせながらー。

 戦時中の『茣蓙と縄』の調達劇。このすさまじい思い出は、今でも私の中に鮮やかな映像として焼き付いている。日頃は善人らしく振る舞ってはいても、窮地に立てば何をやらかすか分からない自分、それまでは見たこともない自分の姿を垣間見た体験だった。

 そんな苦労までして荷造りを終えたのだが、その疎開荷物も、直後の空襲ですべて焼け果てた。空襲では同居していた親戚一名が焼夷弾の直撃で亡くなったが、幸い残りの者は全員無事。その後、私は母と幼子を連れて着の身着のまま疎開先の群馬へと向かった。