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4.私の被爆体験

坂戸市 小川金弥(85歳)

 近くの保育園からは今日も子供等の明るい声が聞えて来る平和な日々である。ふと60年前を想い出す。外へ出る時は必ず防空頭巾を肩に掛け空襲を気にしながらの遊びだった。日本国は外国と戦って大きな犠牲者を出した。この事実を後世の人々に記録として残して置きたいと思ふ。

 昭和19年春北支(中国)で主人が召集されたので2歳になる長男を連れ帰国した。故郷長崎は軍需工場で兵器が生産され造船所は毎日の様に軍艦の進水式が行われていた。B29は毎夜編隊を組んで襲来した。20年8月9日暑い朝だった。35度はあったと思ふ。この日は長男の誕生日だったので赤飯を炊いて兄の家へ出掛け様としていた時、空襲警報が鳴った。壕へ走ったが一杯だったので坂本町三王神社の鳥居の傍の大きな楠の下で敵機が去るのを見ていた。すぐ解除になったので電車に乗り三キロ離れた兄の家へ行った。そこで新聞を見た。大本営発表「広島に新型爆弾投下被害若干」と記してある。新型とはどんなのだろうと話していた時、ピカッと強烈な閃光が走りドーンと地が割れる様な音と共に家の下敷きになっていた。一瞬の出来事、時計は午前11時2分で止まっていた。つぶれた家より這い出て外を見ると暗闇となり雹が降って来た。人が吹き飛ばされている。ずたずたの着物で夢遊病人の様にふらふらと歩いている人がいる。

 食糧は配給制だったので一先ず家に戻る事にした。市街地は電車は倒れ、ガスタンクを始め火の海だった。山を越える事にした。中腹の道端は火の手から逃れて来た人で一杯だった。逃れて来た安堵感からか息絶えている人、赤ん坊に乳ふくませ乍ら息絶えている母親。どの顔も焼けただれボールの様にはれていた。手当ても受けられず苦しみ死んでいく。熱線と爆風と放射線新型爆弾の威力だったのだ。5時間位歩いて家へたどり着いた。全て吹き飛ばされていた。数時間前居た三王神社の鳥居も片足となり楠の大木も吹き飛ばされていた。九死に一生を得たとはこの事と思ふ。爆心地近くだったので火の手から追われる様に畑の方へ逃げた。そこで野宿。畑の作物も焼かれている中に丸いものがあるので近づいて見ると胴体だけが黒こげのまゝ残っていた。畑仕事中被害に遇われた人と思ふ。11日福岡方面より医療チームが到着、惨状を見て被害の大きさに絶句されていた。治療方法なくとまどい乍ら衣類を脱がせると、皮も剥げピンクの色した肌に火傷の薬を塗るだけ。負傷者の傷口には蛆がわいている。日中は艦載機が電線すれすれに飛んで来たが陰になる場所もないのでハンカチで顔をかくす。至る所で死体を十体位積み、丸太を組み火葬していた。死体の匂いと暑さで差入れの銀メシ(白いご飯)も喉に通らず川に捨てた。夜は死体より出る青い鱗が至る処でとんでいる。

 こんな地獄の様な生活がいつまで続くのかと思っていた時終戦の知らせ。みんな泣きくずれたがこれで攻めて来ないと思い、その夜は夜露も気にならずぐっすりと眠れた。

 死者七万四千人、この尊い命と引換えに戦争は終わった。原爆の残酷さ悲惨さは二度と有ってはならないと思ふ。核廃絶の実現こそ真の終結。平和のために力を合わせ努力して行きたいと思ふ。

句 坂の町 地獄を見たり 長崎忌 句 原爆忌 語りつたえて 六十年