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3.坂戸飛行場と戦争

坂戸市 山崎志づ(87歳)

 先日、家でかたづけをしていましたら、戦争国債がでてきました。隣組に割り当てられたものだと思います。そこで、当時のことを思い出してみます。

 戦争がだんだん激しくなるにつれて、食べ物、衣類、日用品等が配給となり、不自由を感じてきました。育ちざかりの子供をかかえた家庭では、一層大変でした。東京などから防空頭巾をさげ、もんぺ姿の婦人が、「衣類や宝石品等を、食べ物に換えるためにやって来ました。農家を教えて下さい」とやって来ましたので、母は案内をしていました。病人がいたら大変で、病院で処方箋をもらい、日本橋の製薬会社まで薬を買いに行き、病院までもどってくるという具合です。一升瓶に配給米を入れて、棒でつき、白米にして、おかゆを病人に食べさせました。

 私は飛行場の炊事に勤めており、当直もありました。女性が軍隊で働くということは、以前にはなかったことでした。警戒警報が鳴り、防空壕でおむすびをむすんだこともありました。赤と白のたすきをかけ、軍刀をさげた週番士官が、抜きうちで検査にくることがありました。厳しい人のことを、「グラマン」とみんなで呼んで怖がっていました。警戒警報なしで、「逃げろ!逃げろ!山の中!」という兵隊さんの声がしました。そして無我夢中で関間の山の中へ逃げ、2、3分後に、米機が頭上を通り抜けました。米兵が双眼鏡を向けている顔がはっきりと見えるほど、近くを飛んでゆきました。

 川越・越生線の県道に面した炊事場にいると、夜に荷車やリアカーでガラガラと疎開の人が通るのが見えました。そして、日に日にだんだん激しくなってくるのが分かりました。東京から来た人が「この辺までくればひと安心。つかれた、つかれた」と言っていました。私は、「いつ空襲になるか分からない。がんばりましょう。勝つまでは」と励ましました。

 13日頃、上官から「陛下から」と言ってタバコを2本賜わりました。金色の菊の御紋の入ったものです。一層励まされました。そして終戦の日を迎えることになりました。

 志願兵が「どの面さげて帰られようか」と泣き、召集された兵隊は、家に帰れると喜んでいました。きのうまで大切なものが、一夜で燃やさなければならなくなりました。その時、「もし米兵がきたら、隠れなさい」と日本兵の女性に情けの言葉でした。

 2、3日たった昼頃、ジープで米兵が4人来たと思います。20メートル先に見えました。隠れてふるえながら、帰りを待ちました。一時間程で帰ったと思います。本部で軍刀を捨て、階級章を外せとの連絡に来たように思います。それからも、2、3回みえたと思いますが、何事もなく過ぎていきました。

 召集された兵隊さんから順にだんだんと帰ってゆきました。最後の兵隊さんは学徒動員の下士官で、6、7人が残り、勝呂の小学校で、10月20日頃に、大学の校歌を肩組みながら歌い、泣いて別れてゆきました。こおろぎもさみしく鳴く、知ってか知らぬかさみしさを一層さそう夜でした。