"平和の原点"を見つめ、この地球から核と戦争をなくしましょう。
このサイトは、埼玉県坂戸市で毎年行われる「ヒロシマ市民の描いた原爆絵画展」の記録を掲載しています。
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蝉のこえ

越谷市在住 今村英夫

夏の風景イラスト

 あの日、比治山の蝉は短い夏を惜しむように、暑い日差しの下で鳴き続けていました。

 あれから59年、今も私の耳の中でずっと鳴き続けています。

 わたしだけでなく、多くの被爆者が外見ではわからない後遺症に苦しんでいます。

 1945年8月6日、当日被爆死亡した10数万人の人々、以後59年の間に後遺症で亡くなった多くの人々、そして今もなお多くの方々が高齢と後遺症と闘い続けています。埼玉県だけでも現在2503名の被爆者がいます。

 しかし昨今、みせかけの正義の名のもとに、一部のまちがった指導者のもと、再び核兵器(劣化ウラン弾等に姿を変えて)を平然と使用し、世界は「戦争」という混乱の道へと迷いこんできました。

 そんな3年前、わたしは「原爆絵画展坂戸・鶴ヶ島地区実行委員会」という坂戸市を中心に活動しているボランティア団体を知りました。長年にわたり「反核・反戦」活動に尽力されていることを知り、大変なショックを受けました。

 わたしは、辛く悲惨な過去に背を向けて目先のことにのみ生き、あの日熱線で皮膚を焼かれ、幽霊のように焼野をさまよう人、生きたまま倒れた建物の下敷きとなり、身動きもできず迫り来る火に焼かれていった人、超高熱におそわれ炭のようになって死んでいった母子らしき人、そんなすべての事実に目をそむけて生きてきたわたしを恥ずかしく思いました。と同時に、わたしにも何かできることがあるはずだ。被爆者のわたしに出来ることといえば、その体験を通して核の恐ろしさ、戦争のおろかさを伝え、二度と繰り返さないでほしいと、訴え続けることだと思いました。

 わたしをはじめ、被爆者の高齢化により、戦争の悲惨さ、愚かさを訴え伝えられる年月はもうわずかです。今こそ声を大にして訴え続けるべきだと思っています。

 わたしは、それ以降、被爆の体験を「絵物語」に描き続けました。そして、機会がありましたら展示させていただいたり、お話させていただいています。九死に一生を得て、いま生かされている者の務めだとも思っています。

 「みせかけの平和の風」が吹く中、ともすれば風化しかけている「反核」「反戦」の呼びかけを一層声を大にして呼び続けるべきだと思います。

 今日も私の耳の中で蝉は鳴き続けています。わたしの人生の花が散る日まで続くでしょう。

 最後に、人種・宗教・国境の壁を乗り越えて、「LOVE & PEACE」という大輪の花を世界の人々の心の中に咲かせたらと思います。

 アテネオリンピック開会式の大歓声を聞きながら、その思いを痛切に感じています。
 ありがとうございました。 合掌

 2004年8月