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朗読 茨木のり子詩 『りゅうりぇんれんの物語』
朗読 劇団 俳優座 高山真樹

俳優座 高山真樹さんの朗読を聴いての感想をまとめました。(以下詩の抜粋)(文責 鶴ヶ島市 M.M.)

劇団 俳優座 高山真樹さん
朗読する高山真樹さん
「華人労働者移入方針」のため
日本軍は手当たりしだい
道々とらえ、数珠つなぎ
手に縄をかけられたまま
銃剣つきの監視のもとで
着いたところはハコダテという町
雨竜郡の炭坑へと追いたてられていった
仲間が生きながら殴り殺されていくのを
じっと見ているしかない無能さに
りゅうりぇんれんは何度震えだしたことだろう
逃げるのなら今だ! 雪もきれいに消えている(略)
厳しい或る冬の朝のこと
あなたはとうとう発見された
札幌に近い当別の山で 日本人の漁師によって
りゅうりぇんれんはスパイの嫌疑がかかっていた(略)
「不法入国者」「不法残留者」としてかたづけようとした(略)
昭和33年3月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労働者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ(後略)

 8月5日午後、原爆絵画展の特別企画のひとつである俳優座の高山真樹さんによる詩の朗読を会場に訪れた皆さんと共に聴いた。会場内に高山さんの声が透る。

 高山真樹さんは、静かに響く美しい声で朗々と、時に凛と研ぎ澄まされた語りで茨木のり子さんの詩を私たちに伝えて下さった。『りゅうりぇんれんのものがたり』に聞く者は涙した。
 とても長いこの詩の朗読が終わった後、交流会があり、「高校の修学旅行で韓国に行ってきた」という男生徒は「韓国の独立記念館へも行ってきた。まだ戦争をやっている国があるので、こういうことをもっとたくさんの人たちに知ってもらいたい」と話し、80代の男性は、 「私たち大人がどういう社会を作っていくのか、が今、問われている」と話された。

 劉連仁さんが生まれ育った中国山東省から連行されたのは1944年9月、北海道の昭和炭坑で働かされ、頻繁に暴行も受けた。1945年7月「このままでは殺される」と逃げ、1958年2月に発見された。
 「華人労働者移入」の閣議決定をしたのは東条英機内閣の時、商工大臣岸信介。「不法残留の疑い、出頭せよ」「強制かどうか確かめるすべがない」と劉さんに冷たい態度で終始したときの政府は岸信介内閣。
 上京した劉さんは、4月8日、政府が渡そうとした10万円を受け取らず、2日後に東京湾から帰国した、という。
 私たちが学校で習った社会科や歴史って何だったのか。これまで知らされることのなかった加害国日本の一面。
 平和を願う思いを私たち一人ひとりがどう行動に結び付けていくのか。私たちの課題です。

 今年、2001年7月12日、東京地裁は、劉さんの逃走生活を「筆舌に尽くしがたい過酷な体験」と表現し、国の賠償責任を認めた。
 だが、昨年9月、劉さんは判決を聞かぬまま、87歳で亡くなった。