"平和の原点"を見つめ、この地球から核と戦争をなくしましょう。
このサイトは、埼玉県坂戸市で毎年行われる「ヒロシマ市民の描いた原爆絵画展」の記録を掲載しています。
原爆ドームイラスト ホーム  > 1998年 第6回原爆絵画展報告集目次  > 「『ピカドン』と私〜53年前の記憶さがし」

証言「『ピカドン』と私〜53年前の記憶さがし」

松岡武司

 8月9日、今日は、53年前、長崎に原爆が投下されて、7万人を超える人々が亡くなった日です。その頃私が住んでいたのは、広島から汽車で40分ほどの瀬戸内海に面した「呉」という海軍の重要な港町でした。当時中学3年生でしたが、学校には行かれず、「勤労動員」で軍需工場にいました。

 原爆が投下された1945年という年は、戦争の戦禍が、私たちの足もとから鼻の先まで迫った年だとも言えます。3月には硫黄島の日本軍が全滅し、6月には沖縄でも全滅したのです。

 ご存じの「東京大空襲」は、3月9日の夜から3月10日にかけてアメリカ軍のサイパン基地からB29、334機が飛来し、東京の下町一帯は焼夷弾と爆弾による「無差別・じゅうたん爆撃」によって「火の海」となりました。悪いことに、その晩は風が強くて、火はみるみるうちに燃え広がっていき、逃げ場を失った多くの人が火の犠牲になったといわれています。子どもを胸にだき抱えて、地に伏したまま死んでいた母親の姿が人々の涙をさそったそうです。しかも、B29の攻撃は、一か所だけに焼夷弾を投下して、消防体制がそこに集中するのを待って、その周りに焼夷弾で火の壁をこしらえて、あとは低空から焼夷弾と爆弾、約2000トンを投下したそうです。この東京大空襲では、一晩に、8万人とも10万人ともいわれた死者を出したのです。さらに、3月13日には大阪が、3月17日には神戸、3月19日には名古屋と、日本中の都市が爆撃によって焼き尽くされていきました。

 しかし、こうした中で爆撃を受けなかった都市もあります。それが京都と広島でした。実はこの時、アメリカ政府(大統領はトルーマンでしたが)7月16日に原爆実験に成功、7月24日に「原爆投下」の決定をし、その候補地として@広島、A長崎を決め、それまで候補地であった京都と横浜を変えてB小倉、C新潟を選んだのです。

 長崎には8月9日に投下されたのですが、実は、その日予定されていた小倉の上空に厚い雲がおおいかぶさっていたので、急きょ、長崎に変更されたということです。

 そういう天気のせいか、8月6日の広島の空は、朝からぬけるような青空で、夏の陽ざしが降りそそいでいました。私は呉の工場の2階で製図台に向かって線を引いていました。突然、「ピカッ!」と目の前が光りました。強烈な閃光のため、目の前は真っ暗になりました。続いて、「ゴォッー!」という地ひびきのような、振動音が襲ってきました。爆風が背中を吹きぬけていきました。今でもあの時の、波が打ち寄せるような爆風を忘れることはできません。瞬間的に、「空襲だ!」と思いました。しかし、「シーン」としているのです。何が起こったかわかりませんでした。しばらくして、工員たちの大きな声が外から聞こえてきました。広島の方角で、何か起こったらしいというのです。人々は海の方へ走って行きました。私も走りました。すると海を隔てた、はるか向こうに、今まで見たこともないピンク色の、巨大な「きのこ雲」が青い空に向かって湧き起こっていました。誰かが「火薬庫が爆発したんだ!」と言いました。広島には陸軍の大きな部隊がありましたから、考えられることでした。それにしてもこの巨大な「きのこ雲」をぼう然と眺めながら、その真下で今日ここに展示されているような凄惨な状況が起こっていようとは、その時は夢にも思いませんでした。

 写真でご覧になった人もあるでしょうが、住友銀行広島支店の入口の表面に、黒い影がはっきり残っていました。そこに座って休んでいた人が、何千度という熱と光と爆風によって、影だけを残して亡くなったのでしょう。

 死者は、民間人だけで14万人といわれています。私の親戚でも生き残ったのは、岡山に疎開していた祖母と、市のはずれに住んでいた人たちと屋根屋の職人をしていた叔父がその日仕事で郊外の方にいて助かりました。しかし、家にいた叔父の両親と子どもとおかみさんは全員亡くなりました。家の下敷きになり、それきりだったようです。

 原爆を投下した後で、アメリカ軍が広島に撒いたビラには、「日本国民に告ぐ!」というタイトルで「爆弾」は「原子爆弾」であると印刷してありますが、軍部は国民の動揺を恐れたのか、「新型爆弾が広島に落とされ被害が出た」とだけ発表しました。

 私たちは、一枚ずりの粗末な新聞を読みながら、暗い気持ちに落ち込んでいったのを覚えています。そして、「新型爆弾」のことを誰となく「ピカドン」と呼ぶようになりました。「ピカドン」は、3日後の8月9日、午前11時2分、長崎にも投下されました。死者は7万人といわれます。

 そして、6日後の8月15日の朝、天皇陛下の重大放送があるから集まるようにという指示が出ました。陽射しの強い暑い日でしたが、工員も士官も軍人も中学生も全員が集まって、ラジオから流れてくる、雑音の多い、奇妙な抑揚とアクセントの放送を聞いていました。そして、意味はよく分からないが、「日本が戦争に負けたのだ!」ということだけは実感しました。軍国少年であったはずの「私」は、「ああ、今晩からゆっくり寝ることができるのだ!」と体中でホットしたことだけを、53年たった今も忘れることはできません。(体中でホットしたことだけを、今でもハッキリと思い出すことができます。)

 最後に、広島で被爆し、7年後に36歳で亡くなった詩人、峠三吉さんの詩を紹介します。ありがとうございました。

 ちちをかえせ  ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる
 にんげんをかえせ

 にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを

 へいわをかえせ

 峠三吉