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39.戦後60年を迎えて

さいたま市 (ペンネーム)中村勝子(71歳)

 現在私七十一才。父は北支にて昭和二十年一月戦死。私長女で弟二人、本当に優しい父を失い、私の人生は未だに人生のつらさを引きずって居ります。 然も生まれは熊谷。終戦の前夜空襲にあい、幸いお盆でしたので4K離れた母の実家へ二才下の弟と昼間後方で機銃掃射の音を後ろにして急いで30分かけて実家へ(母の)辿り着き八木橋デパートから歩いて三分位の場所で米店を六十年やっていたもので、一寸離れた中島飛行場を目標にしたのか判りません。後で聞いた話ですが海軍は早めに終戦を希望していた様ですが陸軍の反対に会い終戦が八月十五日になったとも聞いています。

 お陰でお店と隣の貸し家と裏の自宅三軒全焼。然も胃の弱い娘をリヤカーに乗せ逃げ乍ら、祖母は途中で焼夷弾が胸に落ち、娘がリヤカーに乗っているので4K離れた母の実家迄辿り着き、十五日朝、門の側で命を落としたのです。

 お店の前の通りは太田通りとも妻沼通りとも言われています。幸い川一本のお陰で現在の石原三丁目の場所で軍人さんが住んでいた貸し家が空いており直ぐに移れて幸せでした。

 農地改革で土地も安くとられ、新円となり一万円札も紙切れ同様になり、祖父は(73歳)ノイローゼとなり毎日胸にナイフを入れて“死にたい”と口にしていました。三十三歳の母は米店を続ける事出来ず鍼灸師となり八十歳迄三人の子供の為に頑張り、私も長女でしたので、家事は勿論畠もさせられ、お灸の手伝いも学校から帰って五年致し、死にものぐるいでした。二人の息子を大学迄出して現在母は九十四歳。さすがに現在大した事ないのですが、入院して約半月経って居ります。

 今の主人とは二でお見合い、価値観は違いますが縁が有ったのでしょうか?矢張り主人の父も満州でソ連軍に依って四十九歳で終戦後戦死。お互いに苦労しています。夫婦の父親が戦死は珍しいです。

 人間オギャーと生まれて人生決まるとも聞いています。私の願いは此の世界から一切戦争が無くなる事を祈って已みません。朝な夕な遺影の前で祈っています。

 追伸
 八木橋デパート側の星川では沢山の方が亡くなっています。