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37.ペンを銃に持ち替え行進した学徒兵壮行式の思い出

さいたま市 渦尾延之助(83歳)

 忘れもしない壮行式の思い出、それは昭和18(1943)年10月21日の 事だった。当日は秋雨降りしきる冷たい1日だった。幼少の頃から満州事変・日支事変・日中戦争・大東亜戦争(第2次世界大戦)と事変・戦争の連続の中で少年時代、青年時代を迎えた私の青春時代は、まさに戦時中だった。中でも学生の特権だった「文科学生徴兵猶予措置」が廃止され、その第1回の学徒壮行式がこの日だった。

 国民は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に、お粥をすすり木綿の作業着やモンペに身を包み、朝暗い内から夜星を頂くまで、大黒柱を戦場に送った留守家庭は母親と老母の労働で維持されて来た。幼な子が「お母ちゃんおなかが空いた、何か頂戴」と駄々をこねると、母は「遠くで戦っているお父さんは食べないでもお国の為に頑張っているのよ。我慢してね」と窘める母の頬にも一縷の涙が光った。不満ながら「ハイ」と頷く幼児の姿は当時の何処の家庭でも見られた極めて有り触れた光景だった。

 そのような中、日本軍の前線基地は次々と陥落し、いよいよ日本の戦況は悪化していった。こうした危急存亡の時期の昭和18年6月25日戦時学徒勤労動員体制の確立、続いて文科系学生の徴兵猶予措置の廃止、9月23日女子挺身隊に未婚女子の動員強化が決定した。政府・軍部は国民皆兵、国土総戦場を意図した。その第一歩が同年10月21日の学徒兵壮行式となった。明治神宮外苑競技場(現国立競技場)に東京府下の該当学徒が集合し、東大を先頭に中央雛壇前で「頭右」の挨拶をして中央広場に整列し、東条英機総理兼陸相、島田海相、岡部文相の訓示を受けた。特に東条総理は陸軍大将の制服に胸一杯の勲章・記章を身に纏い、「今我が国は未曾有の国難に遭遇し、先輩将兵は不自由な異国にあって粉骨砕身護国の鬼として頑張っている。諸君はこの先輩に続いて赤心これをもって祖国日本、天皇陛下の為に、尽忠報国身を鴻毛の軽きにおき奮闘されるよう祈りたい」ほぼこのような激励の辞だったと思う。

 スタンドを埋め尽くした後輩・両親等関係者、中でも圧倒的に多かったのは母親と女子学生だった。学生服に巻脚絆・編上靴に古びた38式歩兵銃の出で立ちでの雨中行進だった。傘も差さず見守るスタンドの眼、あちこちでハンケチで頬を覆う姿も見受けられた。恐らく我が子を戦場に送り出す老母や恋人と別れを惜しむ女子学生だったのかも知れない。「お国のため天皇陛下万歳」は別としても、「命永らえて再び祖国の土を踏みたい」と言うのが、私の真意だった。戦争で一命は捨てたくない。

 やがて8月15日が、そして10月21日が訪れる。毎年この日は、誕生日と共に私の感懐を刻み不戦を誓う1ページであり、永遠の平和を希う1日でもある。