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31.川崎大空襲

日高市 大室孝(72歳)

 昭和20年4月15日夜、警戒警報から空襲警報となり、我々は防空壕へと避難した。あたりは真っ暗闇、よどんだような重苦しい空気がただよっている。そんな中をラジオのアナウスが聞こえて来る。「敵B29大編隊北上中」。つい10日程前、4月4日の爆弾攻撃では、我が町でも30人位の人が死んでいる。その中には僕の知っている人も沢山いる。その時、爆弾の落ちた時の大炸裂音と大轟音と大きな地響きには、僕はその怖さと恐ろしさで気が動転した。生きた心地はしなかった。ところが今夜は敵機は大編隊だと云う。そのラジオのアナウスが闇夜を通して、何度も何度も繰り返して放送されて来る。この前の4月4日のようになったらどうしよう。今度死ぬのは僕達の番か、頭は割られ、脳みそが飛び出したり、あの青ざめた顔の死体になるのかと思うと、不安で不安で、恐ろしくて恐ろしくて、何んとも言い知れない気持ちである。まだ中学1年生になったばかりの僕である。死ぬのはとても怖い。そんな思いで防空壕の中で又、又「敵B29大編隊北上中」と云う放送を聞いている。

 そんな恐ろしい闇の夜が流れている、そのうちに大編隊の先隊がやって来た。遠くの方で爆発音が聞えて来た。防空壕の中でチヂミ上がっていると、いつしか近くで大音響と共に大爆発が聞こえ、あちらからもこちらからも火の手が上がった。いよいよ来た。僕の心の中は平静さを失い恐怖心で狼狽していた。やがて避難する人々の動きや、ざわめきや、カン高く人の名前を呼ぶ声や、色々なカン高い声や、かけ出す足音や、早足の足音が聞こえて来る。で、僕は防空壕の中でしゃがみ込み背中を丸くして頭からフトンをかぶっていた。すると敵B29の轟音もゴウゴウと大分大きい飛行音が続いて来た。程なくすると大音響の爆発音と地響き、そしてバリバリツと言う炸裂音と共に僕が「イテツ!」と、もうこれ以上出せない程の大声で叫んだ。何かの破片が防空壕の入口の戸板をブチ抜き、かぶっていたフトンを押し通し僕の足に当った。その時の怖かったこと。痛かったこと。熱かったこと。そして又、その辺にチョット手をついたら、焼けた熱い鉄の破片の上に手をついたからたまらない。又。アチッチッーと大声を出した。オッカさんはこの僕の叫び声にはかなりショックを受け、おどろいたらしい。「僕の足の一本ぐらいはスッ飛んだぐらいに・・」。その時の僕の感覚では爆弾の炸裂で防空壕のすぐ前にでっかい直径10メートルぐらいの穴があき、僕の足は半分ぐらいその穴の中へつっ込んでいるぐらいの感じであった。それ程に直撃弾でもクラッタぐらいのショックであった。そして頭の上のフトンを取り除き、オヤジの顔を見たら血だらけで、ヒタイや目のふちに傷があり、断末魔のような地獄の顔をしていたので、又また、僕はびっくりして泣き出してしまった。その時僕は開口一番何と言ったと思いますか。それは恥ずかしながら、情けないながら「トーちゃん田舎へ行こう!」と。まぁ、なんと情けなや。その時オヤジはジット私の顔を見て「うん」とうなずいた。その時のオヤジの顔は血だらけで地獄の顔であったが、うなずいた時のオヤジのまなざしは誠にやさしい仏様のような顔であった。「地震・雷・火事・親父」の典型で、常にこわいオヤジでしたが、この時のやさしい顔はいまだに忘れられません。おそらく私とオヤジとの生涯の中で私に示した一番やさしい顔だったのではないでしょうか。

 尚以上は、この大空襲の情況(状況)における序曲です。まだまだ沢山あります。僕が大声で『イテツ!』と言った時に、リックサックを背負い自転車に乗ったまゝの男の人が亡くなり、ウチの防空壕の入口の所に倒れていました。やはり防空壕の内と外では、これだけの違いがあるようです。血だらけで済むか、死ぬかのちがいです。そして私は今日までなんとか生き残ったという次第です。