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30.学童集団疎開

日高市 大室孝(72歳)

 昭和19年8月23日から、翌昭和20年3月10日まで、神奈川県下伊勢原の在岡崎村のお寺に、約7ヶ月間集団疎開した。当時は食糧事情を始め、衣服その他生活物資も全般にわたり極めて不足している状態であり、全ての物がナイナイづくしで、生きて行く事自体が大変な時代であった。そのような世情の中で親兄弟とも別れ、自分一人集団生活の中へブチ込まれる。ことのほか食糧事情については大変であった。ご飯もおかずも、あてがいぶちのおかわり無しの一膳飯。人間、あてがいぶちで三度の食事以外何も食べられない、となると、三度の食事の量はソコソコあったとしても、人間心理として、メシがたりない、喰うものがたりない、という飢餓意識だけが体全体に満ち満ちて来る。ですから、秋の実りの頃ともなると、あたりの畠や山の木の実を取り、生のまゝ食べた。栗、多くの者が生で食べたが私にはとても食べられなかった。落花生、大豆の取り入れの頃で、畠に干してあったが、多くの者が生で食べたが、これも私には生では食べられなかった。第一、落花生や大豆を生で食べると下痢をするし、又、あれを生で、口の中で噛んでみればわかりますが、あの青くさい匂いが歯の間にしみ込み、何とも言えない、いやな青くささが、いつまでも取れない、いくら水で口をゆすいでも、あの独特の青くささは中々取れない。それを多くの者がヘイチャラで食べたので、誠に不思議であった。私が生で食べたものは、大根、人参、サツマイモなど、畠から掘り出して食べたものだった。このように我々学童は畠をかなり荒らした筈であったが、村のお百姓さん達からはあまり文句も出なかった。

 畠荒らしばかりではなく、口に入るものと言えば何でも口に入れた。その頃は当然お菓子などは、どこをさがしてもありません。まるで幻の夢のまた夢のようなものです。ですが、ここに飴のようなものがあったのです。あのように何もない時代でも解熱剤とか健胃剤とか「わかもと」のまがいもの程度の薬は売っていた。それを買い求めては飴がわり、お菓子がわりにしていた。しかし解熱剤を飴のように幾つも幾つもしゃぶるわけにも行かず、いくら腹が減っていても程々にしゃぶっていた。その点「わかもと」のまがいものの方は、かなりボリボリ食べた。ところが村に入った疎開学童80人ぐらいが、来る日も来る日も薬を買いに行くので、たちまちにして薬も売り切れとなった。

 三度の少ない盛りきりの一膳飯以外に口に入れるものが無くなって来ると、かつての自由に食べられた頃を思い出し、ヨダレをたらたらと流すだけである。又再びご飯や魚や、はては、鯛焼や、マンジュウや、大福、おはぎを腹いっぱい食べる夢想にふけるだけである。周囲には食べるものは何もない、この毎日毎日の連続はなんともやり場のない憂うつの連続であった。