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29.戦時中の思い出

さいたま市 出口綽寧(70歳)

 私の故郷は北海道空知(そらち)支庁管内の農村です。昭和16年4月、国民学校初等科に入学し、その年12月8日に太平洋戦争が始まりました。翌年の2月に英国領シンガポール要塞が陥落して「昭南島」と日本名の名称に変わりましたその戦勝記念に在校生全員が白ゴム鞠を貰いました。

 昭和18年、3年生になってから学科に軍事教練と、戦地に行っている出征兵士農家宅への援農が日常化しました。軍事教練は木銃で標的の藁人形を突いたり、模擬手榴弾を投げたり、さらには敵陣地突入を想定して吶喊・白兵突撃を繰り返すという内容です。子供ですから実戦に役立つとは思っていませんでしたが、兵隊経験のある先生が戦闘の基本姿勢を教えて銃後の気構えを持たせたということでしょうか。それでも私達は真剣に教練に取り組みました。

 援農は春は田植え、夏は草取り、秋は稲刈りです。一軒の出征兵士宅に約10人が出向いて手伝いました。冬は何に使うのかわかりませんでしたが、山に行って木の樹液を採取しました。何の木からどんな樹液を取ったのか、いまでは思い出せません。この時は先生が付き切りで採取方法を指導していました。

 援農のほかに代用タバコの原料になる、野生イタドリの葉の採取や、ヒマワリの種を植えて、大きな花から実を取って、それを学校に持ち込み供出しました。イタドリの葉を供出すると、先生から「きんし」という紙巻きたばこが支給され子供たちを通して親に渡されました。ところが、下校中にいたずらして吸う者がいて、それから喫煙中毒になって吸い続けている生徒もいました。

 それと子供達にうさぎを飼うことを学校側が奨励しました。毛皮を採るためです。私も3匹飼って供出しました。子供の目の前でウサギがあっという間に殺され毛皮になっていく姿を見て、皆んなショック受けて声も出ません。また飼犬も供出の対象になりました。我が家では長兄の一文字をとって「イチ」という愛称の犬を飼っていましたが、父親の言いつけで供出しました。愛犬も私たちの見ている前で木刀で頭を一撃されて即死です。その場ですぐ毛皮にされてしまいました。兵隊の防寒用衣類に使われるということでした。

 昭和20年6月ごろ国鉄・函館本線を走る機関車の後部・石炭車に重機関銃が備えられ兵士が3人ほど配備されるようになりました。列車が艦載機のグラマンに猛射され、客車が破壊されたり死者が出るようになって戦場化して行きます。江別という製紙工場の町では木製戦闘機を作っていましたが、工場が艦載機に猛射され、数名の死者が出ました。室蘭では艦砲射撃で製鉄工場の煙突が倒壊するなどいよいよ北海道にも本土決戦が迫るという風雲でした。

 近代戦争は軍人に限らず国民全員参加の総合戦だと当時の先生から教えられましたが、正しく戦地の兵士も銃後の国民も同じ戦場だという実感がいまでも伝わってくる思いがします。初等科5年生、11歳の時に終戦を迎えましたが学校で勉学に励んだという記憶がありません。戦後も教科書の無い時代が2年ばかり続き学業は置き去りにされました。

 後日余談です。私の弟が清瀬市に住んでいますが、上尾市に行った折に私の弟よりも6、7歳年上の人と会って北海道の話になりました。年配の方は「自分は戦時中に援農のため北海道に行ったことがあり、懐かしい」と話が弾みました。援農先の地名を聞いたところ何と私たちの故郷でした。当時は埼玉県内の農業学校の生徒で、私たちの国民学校の運動会にも参加しましたと、60数年前をお互いに確認し偶然を喜び合ったそうです。

地名、名前、熟語に振り仮名

 空知(そらち)支庁管内 所在地 岩見沢市
 昭南島(しょうなんとう)
 吶喊(とっかん)・白兵突撃(はくへいとつげき)
 木銃(もくじゅう) 銃機を模して木で作られた銃。学校には38式歩兵銃も配備されていました
 国民学校 昭和16年4月〜昭和22年3月まで。初等科6年制義務制度 高等科2年制非義務制度
 グラマン アメリカグラマン社製 アメリカ航空母艦の最新鋭・艦載戦闘機
 国鉄・函館本線 函館ー札幌ー旭川間、北海道の幹線鉄道。約380キロメートル
 援農 各種供出は 昭和13年の国家総動員法の発令によるもの