ホーム  > 平和のための戦争体験記 目次  > 24.一冊の書が記憶を取り戻す〜私が乗船した病院船は

24.一冊の書が記憶を取り戻す〜私が乗船した病院船は

入間市 田中萬吉(74歳)

 平成13年8月15日、たまたま新聞を読むうち一冊の書の広告が目にとまった。海軍病院船はなぜ沈められたか。第2氷川丸の航跡。三神國隆著。(株)芙蓉書房出版だった。私は14歳「お国のため」の一言で志願し、船員となり乗船したあの病院船だった。早速、書店に依頼して取り寄せ夢中で読んだ。

 病院船第2氷川丸に乗船するまでの経過はこうだった。私が高等小学校2年の頃は、戦争は日毎に熾烈さを増し本土爆撃は毎日続いた。「海軍軍人になりたい、なるんだ」と志願したものの夢は破れた。が、たまたま海員養成所募集の記事を読んだ。「よし船乗りになって海軍軍人へのきっかけにしよう」と応募し、昭和20年1月横浜第一海員養成所に30人が入所した。

 入所するや毎日海軍体操、学科として船の構造について、手旗信号、横浜港でボート漕ぎ、モールス信号の訓練など猛特訓が続いた。訓練中にミスがあれば容赦ない樫棒での制裁、水一杯バケツを頭上に支える体罰、苦しいが歯を食いしばって耐えた。

 それにしても、私たちは空腹にはこたえた。三度の食事時は、丼のカサの多いものをめがけてわれ先にと突進し食卓に着いた。夢中で3ヶ月の短期養成が終わった。私たちは一時自宅待機が命じられ、5月1日横浜駅集合と命令が下った。

 横浜駅には同期生30人全員集合し、係りの指示を待った。私の指示は中村君(埼玉蕨出身)と二人で、行き先も知らされず夜汽車に乗せられた。到着した駅は京都舞鶴軍港、到着するなり係員が「お前たち二人はあの病院船に乗船」の一声だった。見たこともない巨大な煙突2本に大きい赤十字のマーク、思わず「うわぁ」と声をあげた。

 乗船中の記憶を蘇らせたのは「書」の195頁から31頁に亘って「7、最後の航海」の記述だった。あの時そうだったのか、そうだったなぁと走馬灯のように巡ってくるのだった。以下、書の「最後の航海」をもとに、私の記憶とをだぶらせ第2氷川丸の航海について記してみた。

 病院船ってそんなことまでしていたのか、この書を読み、戦争に負けたのも当然だ、「お国のため」と働いた俺たちは何だったのだ。読み終えてむなしくなった。

 昭和20年5月、第2氷川丸は傷つき疲れ果てた船体を舞鶴海軍工廠で休めていた。病院船院長は熊代延敏軍医大佐に代わったと記され、私も名前はくっきり覚えている。5月、下士官、兵52人が新たに乗船、14人が退船。この中の二人が私と仲間の中村君だった。

 6月3日午前5時舞鶴を出航、途中佐世保で食料品や南方各地への補給物資を搭載し、7日午後本土を離れた。目的地はシンガポールである。佐世保を出航して翌日8日、早くも東シナ海で米軍哨戒機に発見され、船内は緊張していた。この緊張もよく覚えている。

 出航するや、8日間の船酔いには苦しんだ。大波で船がぐんと沈んでいく、と同時に胃袋から何もかもが飛びだしてしまう。食事は無理やり食わされこの繰り返しである。船酔いでも作業、訓練は続く。椰子の皮での甲板磨きは半端ではない。甲板員全員で、号令のもとに磨いた。ハンモックのつりかたは養成所での訓練がなく初めてで、厳しく鍛えられた。

 船酔いもいつしかシンガポールにつく頃になると、船内を普通に歩行でき食事も苦もなくとれていた。

 船中の食事は横浜時代とは大違い、食器はブリキ製だが食ったこともない珍しい品々が毎食で腹一杯に食った。

 24日ジャワ海を東に航行中遭難者が乗ったボート発見救助。さらに5人の乗った救命艇を発見救助。乗員はみな潜水艦に魚雷攻撃を受けて3隻が撃沈され、生き残った兵だと聞かされた。この様子は目の当たりに見て、今でも情景が目に焼きついている。

 アンポンには27日入港直ちに治療品その他物資、重油750トン揚陸。第102海軍病院アンポン病分院などから293名船内に収容した、と記されている。また兵士1212名も同時に乗せている。兵隊には全員白衣を着せ偽患者を装わせた、とも記されている。この事実は、私も急に傷病兵が増えたなとは感じとっていた。

 出航は28日、入港から僅か13時間半。出航した病院船は30日航跡を表す実線は、マカッサルとバリ島のちょうど中間あたりで終わっている。この船に関する記録はこの6月30日までで、これ以降の資料はない、と記されている。この間にダイアモンド積載説が生まれていたとも考えられる。

 最後に寄港したシンガポールでは、大量の錫を積んできたとの乗務員の証言もあるが、それを証明する資料はない。

 7月5日シンガポールに入港。ここで1200人の陸戦部隊は下船、代わりに2000人を超える引き上げの民間人を乗船させた。この間船内で産気づいた女性が手術室に運ばれたものの、船内に婦人科医がいなくてやむなく外科の軍医が医学書首っ引きで、無事女の子を産んだ。船内大騒ぎ、私も耳にしている。

 広い海、太平洋の真ん中だから、洋子と命名したとも聞いた。

 病院船第2氷川丸第5次行動。20年6月3日〜7月24日まで「敵機の来襲4回、機雷発見6回、敵潜2回なり」これが最後の行動となった。

 7月20日佐世保に寄港し、23日舞鶴港に帰港次期命令を待った。

 8月15日正午、玉音放送によって完全に私の海軍軍人への夢は閉ざされてしまった。

 しかもこの船は8月19日未明舞鶴港外、若狭湾西部で自沈する。その船体は今も同海域の海底120メートルに横たわっている。当時この船は「沈める」との、噂の流れていたのは復員前に聞いていた。病院船の結末は戦後不思議な「財宝伝説」に包まれている。欲にかられた男たちが夢を追い求めて、この船に群がった、と記されていた。

 今年戦後60年、74歳を迎える、元気に今あるのも「病院船」故だった。他の輸送船だったらと思うとぞっとし、仮に偽装してた病院船であったにしても良かったと安堵した。

 祈る、病院船第2氷川丸よ安らかに眠れ。