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21.大東亜戦争(熊谷大空襲)

吹上町 佐取昇(70歳)

 熊谷大空襲それはまぎれもない昭和20年8月14日の夜の出来事であった。丁度この地方は一ヶ月遅れのお盆の最中。そして悔しいのは次の日が終戦であった。もう一日早く終戦に成っていたならばこんな大惨事はまぬがれていたのだ。

 皆、まさか熊谷が空襲に遭遇するとは思っても見なかった、皆お盆の疲れでぐっすり寝入っていた、突然空襲警報のサイレンが鳴り響いた、通常は警戒警報の後で少しの時間が経過してから空襲警報が鳴るのだ、静かな町は突然アメリカのB−29爆撃機の無差別爆撃の爆弾の雨に見舞われてしまったのだ、何事が起きたかわからなかった。

 私は小学校(当時は国民学校と呼んでいた)5年生であった、空襲とはどんなものかは知っていた、既に東京は毎日の様に爆撃を受けていた、吹上町から見ると何時も東京の空は空襲の為に赤々と夕焼けの如くなっていた“ああ又東京は燃えているな”と、見ていた、東京の人々は田舎に田舎にと親戚や知人を頼って逃げて来た、勿論車等は無い、荷車に必要最小限の荷物を積んで17号国道を何日もかけて引っ越して来た、あの佐谷田のガードの坂はきつかった、皆で押して上げた、お礼を貰った事も有った、アメリカの無差別爆撃、それは民間人も病院も子供も女性も皆殺しなのだ。

 夜中に突然台風と雷と地震が同時にやって来た様な状況であった、爆弾と焼夷弾が雨の様に降りかかった、一度に町が火の海と化した、逃げる所は無い、皆火傷と熱風で星川に飛び込んだ、しかし星川も水がお湯と化してしま って数百人が亡くなった。

 今でもその霊を弔う灯籠流しの行事が行われている。 その状況は広島の原爆の投下時と類似した様相を呈していた、焼けただれた手を握るとツルリと皮膚がむけてしまう、水、水、水が欲しい生き地獄であった。

 幸いにして爆撃を免れたのは市内の吹上町側の一部のみが難をまぬがれた、ここは今も古い建物が見受けられる、現在の17号に沿って全て焼失した、その後復興事業の再開により狭かった本町の17号国道は拡幅され現在の4車線と成った。

 アメリカのB−29爆撃機は超大型で、4個のプロペラ機である。日中から飛来して来た、グアム島やサイパン島、硫黄島から飛んで来た、1万メートル以上の成層圏を悠々と飛んで来た、勿論飛行機の姿は肉眼では見えない、ただその後ろに出来る白い飛行機雲が見えるので、その先端にB−29が飛んでる、と言う事は確実である。

 日本はそこまで届く高射砲が無いので打ち落とす事が出来ない、めくら滅法撃ったのがごく稀に当たった事も有った。

 現在ならば無線誘導弾(ミサイル)があるが、悲しいか日本にはレーダーも何もない。B−29爆撃機はあざ笑うかの如く悠々と飛んでいるが、ただ見ているだけであった。

 そして次の日は終戦と成り、天皇陛下の無条件降伏の放送が流れた、どうして熊谷市が最後の空襲にならなければ成らなかったのか、犠牲者は悔やみきれない無念が今も消え去る事は無い。

 それが皮肉にもお盆の最中であった、先祖は守ってくれなかったのか。 三か尻の飛行場と群馬県の太田の飛行場も爆撃の対象と成って相当なダメージを受けた。そして同時に爆撃を受けたのは熊谷市だけでは無かったのだ、周辺の町村も、太井村(現在の熊谷市太井)棚田、門井(現在の行田市)更に吹上町も爆撃の対象と成った。何故かと言うとB−29は大型の為旋回区域が大きく、旋回しながら爆弾や焼夷弾を落としていったのだ、更に丁度国鉄(JR)が爆撃の最中に熊谷駅から機関車を吹上駅に向けて発車させた、この後を追ってB−29が爆撃をして来た、何故か機関車には命中せず、線路の両端の町村に爆弾が落ちて被害が拡大してしまったのだ、周囲の町村からも多くの死傷者が出た事は言うまでも無い。

 B−29の無差別攻撃、それは口では言い表せない程すざましい爆撃なのだ。爆撃をする時は急降下して来る、羽根(翼)の長さが100mも有ると言われていたその4個のエンジンの轟音と突風、爆撃音が一緒に成って、雷と台風と竜巻と地震が一緒に成った様なすざましさ、家の中にいたら良いか、外が良いかその時の運である。ダダダダと爆弾を落として又急上昇して行く、木はなぎ倒され、直撃弾で家は二つに割れて燃え上がる、周囲はどこを見ても火の海と化して、草木もメラメラと生のまま燃えている、油が飛び散り(ゴムノリ状のもの)臭くて煙と一緒に臭って呼吸も良く出来ない、畑に落ちた爆弾の為に農作物が稲、芋、大根等が根こそぎ引き抜かれて、民家の屋根の上に落下して来る、何処に逃げたら助かるのか、右往左往しても誰も助けには来ない、当然警察も消防も全く機能してない、日常の消火訓練は全く役に立たない。バケツリレー、竹槍訓練、こんなもの無駄な訓練と成ってしまった、何と馬鹿な日本の政治家なのか。(今も日本は全く変わってない)

 吹上町は病院も直撃弾にやられて燃えてしまった(現在の老人いこいの家)。行田市門井地区では一家全滅の被害に遭った家も有った。

 農家の大半の家庭で防空壕を掘って有った、私の家は母子家庭なので掘れなかった、家の前と後ろに爆弾が落ちて大きな黒い穴が空いていた、家への直撃は数秒の差で免れた、周囲の大木やくねの木や垣根もメラメラと燃えていた、家に飛び火しない様にお盆様を拝んでいた、前の家庭菜園には焼夷弾が突き刺さっていた、家の中に居て私は助かった、外に出ていたら爆弾の破片に触れて死んでいたかも知れない、破片はチリヂリに裂けて飛び散っていた、材質は鋼鉄の板で出来ていてとても固い、各所に不発弾が落ちていて危険だ、ある小学生が不発弾に触れて暴発し、体が炎に包まれて元荒川に飛び込んで助かった、この小学生の家は大型爆弾の直撃に遭って二つに割れて燃え尽きてしまった、吹上町北新宿地区は相当量の爆弾と焼夷弾の爆撃に遭遇した、それはJRの沿線に有った為以前記した様に熊谷市の駅から発車した機関車の後を追っ掛けてきたB−29の爆撃に見舞われてしまった、長谷川菊次宅、長谷川佐司宅、森田勝治宅は全焼した、家族は共同で掘った防空壕に入っていて難を免れた、しかし農業の為、牛をひもでつないでいたまま逃げた為、牛は焼け死んだ、モーモーと鳴きつづける牛の声が数分間にわたり聞こえていたがどうすることも出来なかった、数軒の家に火が付いたが家族の協力で消し止めた。(わら屋根が多かった為)消防団も警察も誰も来てはくれなかった。皆自分の事で他人の事等出来なかったと思う。

 次の日はもう終戦で天皇陛下のお言葉が放送されていたと聞くが、そんな事はどうでも良かった。身の回りの焼け跡の整備で、又けが人の介護で天皇陛下の放送等聞く事は不可能で有った、第一電気もラジオも燃えてしまって無いのだ。

 焼けただれた牛の姿が今もこの目に焼きついている、熱くて近寄れない、まるで噴火口のマグマの様な焼け跡の状態である、消防が来たのは3日経ってからだった。

 我々はここに宣言する

 戦争を知らない子供たちが増えて来た現在、この内容を後世に伝えて、二度と戦争をしない、させない国に日本は成らなければ成らない、ブッシュ大統領と組んで小泉内閣はこの戦争を再びわが国を巻き込もうとしているが、とんでもない政治であり、断固として反対して行かなければ成らないのが我々の任務では無かろうか。