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17.輸送船

さいたま市 新井龍男(87歳)

 昭和17年4月、当時満州国北部のソ満国境に近い日本軍駐屯地で現役兵として足掛け5年、国境警備やノモンハン事件関係の任務を終えた私達が内地に帰還した時のことを63年振りに想い出してみる。

 駐屯地を出発した我々の乗車した列車が所謂匪賊に運行を妨害され脱線、転覆の事故により数日かかって漸く大連に到着した。

 その頃、日本は既にアメリカと戦争中であった。東支那海や黄海に敵の潜水艦が出没しているという情報があり、輸送船の都合と併せて、我々は直ぐに乗船することが出来なかった。

 我々が小学校の講堂を借りて滞在しているときに、アメリカの飛行機が内地を初めて空襲したというニュースを聞いて、その意外な事に驚いたものである。

 4月30日に、漸く乗船することになって、大連港を出航した。前日、敵の潜水艦が出現したという情報が流れていた。輸送船は敵潜水艦の魚雷攻撃を避けるため、蛇行しながら航行した。

 各部隊からは船上の監視兵を出して洋上及び対空の警戒に当たらせた。海面の動きに慣れない我々が、果たして敵潜水艦の存在を発見出来るのだろうかと思いながらも、一心に海上を見つめたものである。

 輸送船は貨物船を転用したもので、兵員は船艙に充満していた。若し此の船が魚雷攻撃を受け沈没するようになった場合は、船艙に居る我々全員は、僅か一箇所の出入口からでは、逃れることは出来ず、到底助からないと覚悟せざるを得なかった。万一運よく甲板に出られたとしても、今の季節の海水の冷たさでは、長く海に漬かっていることも出来ないと思った。私は甲板で監視の任務についたときは、船艙に居るよりも増しだと思った。

 朝鮮半島がぼんやりと霞んで見えてきた。やがて船は陸地に沿って沖を航行していた。低い山々が続いていたが、緑の山は少なく灰褐色の山が多く目についた。人家らしいものは見えず、風景は単調であった。

 何も見えない大海の真っただ中にいるときよりも、陸の見えるところを航行しているときの方が、気が楽になるものである。瀬戸内海に入ったことがわかると何も心配はなくなった。

5月5日に無事大阪港に上陸することができた。翌日東京の留守隊に到着し、数日後、現役満期で除隊したのである。

 翌年10月に論功行賞の授与が行われた際、大勢の戦友が再会した。然し既に召集令状を受け、再度の兵役に就いている者もいた。 未だ召集令の来ない戦友達は、明日の運命も知らず、高らかに談笑していた。