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14.戦時下の新米教師の体験記

鶴ヶ島市 島村のぶ(78歳)

 昭和19年、第二次世界大戦(太平洋戦争)当時、無謀な印パール作戦に失敗した日本軍は、坂道を転げるように敗走を繰り返し、悲惨を極めた。サイパン、グァム、ルソン島と次々と占領され、日本軍は全滅、本土防衛体制と追い込まれ、戦況はますます暗雲に鎖された。その年の3月、私は女学校を卒業した。学徒勤労令や女子逓信隊勤労令が交付された。さらに満17歳以上を兵籍に編入、神風特攻隊が編成され、男子は戦場へ、女子は銃後の守りへと駆り立てられた。

 大都市には疎開命令が出され、学童疎開が始まった。現在の坂戸市多和目永源寺にも板橋の小学校の子供が4〜50名、集団疎開していた。親元を離れ、先生とリヤカーを引き、4キロ以上もある道を森戸まで食糧の買出しに私の家の前を通った。痩せ細った元気のない、寂しそうな姿が目に焼きついている。

 3月31日付けで「南古谷国民学校助教諭を命ス。月棒32円給ス」という辞令を手に私は田んぼの中の古い木造校舎を、やっと捜し着任した。新しい駒下駄を履き、銘仙の着物地で作ったモンペ姿。初めて就職する嬉しさと一抹の不安が入り混じった気持ちを抑えながら職員室の戸を叩いた。16歳10ヶ月であった。私は東組二年の担任、児童数65名、校舎の一番東端の教室である。二人一組の古い机と椅子がビッシリ並べてあり、黒板の前に教卓が置けない有様であった。

 でも無我夢中で毎日、楽しく過ごした。食糧増産のために一年生から田んぼが割り当てられ、私は生まれて始めて田植えを経験した。暑い夏の日に田の草を取ったり、畦道に大豆を蒔いたり農作業が半分、勉強が半分であった。

 教師になって半年ほどした頃、米軍爆撃機B29を主力とする本土空襲が本格化し、落ち着いて勉強どころではなくなった。登校すると空襲警報が発令され、全校児童下校させる。字別に教師が付き添い、家庭に送り届ける。或る時、田んぼの中を並んで下校していたら、艦載機が頭上に飛んできて機銃掃射を受けた。子供たちを水路の中に伏せさせたが、生きた心地はなかった。南古谷まで電車を乗り換えて通勤するのも困難にとうとう一年で転任希望を出して隣村の鶴ヶ島第一国民学校へ転任した。昭和20年、教職二年目の私は18歳で三年男組の担任となった。校舎が三列に並んでいて中校舎の東半分には、軍隊が駐屯していた。教科書は更紙で製本されていない。自分たちで折り目に鋏を入れ、針と糸で綴じた。男教師は校長先生だけでほかは殆ど召集され、宿直なども女教師が二人組で行った。戦況はますます悪化し、本土決戦を目前にした8月、広島、長崎に原爆が投下された。授業らしい授業が出来ず、子供たちは家庭待機となり、教職員は防空壕堀や、さつま芋植えなどをして過ごした。高萩と坂戸に飛行場があり、その中間にあった鶴ヶ島は艦載機により機銃掃射をたびたび受けた。窓ガラスはびりびりと震え、教室にいたたまれず東横の雑木林の中に上履きのまま逃げ込んだ。

 8月15日は午前中、全職員で防空壕堀の作業であった。今の大欅の西側に立派な奉安殿があり、その裏に穴を掘ったのである。真夏の太陽がじりじりと照りつけ、じっとしていても汗がにじんできた。

 陛下の玉音放送があるというので、休みなく掘った。いよいよ正午、青年将校が馬に乗り軍刀を捧げながら緊張した面持ちをしていた。私たちはなにやら見当もつかず、兵隊たちの後ろに整列した。朝礼台の上にラジオが置かれ、そこから流れてくる陛下のお言葉ははっきり聞き取れなかった。後になって「戦争が負けたんだ。もう終わりだ。」という兵隊の吐き出すような言葉に、ただ呆然として、みな無言であった。大欅の下にはスコップや鶴嘴が転がっていて、誰も片付けようとはしなかった。暑くて長い一日であった。