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12.潤い

坂戸市 徳田勇(77歳)

 私は、敗戦の日を昭南島(シンガポール)で迎えた。当時、海軍・第10通信隊に所属、通信業務に従属していた。職場である電信、暗号室は、当初、セレター軍港地区内ビルの3階にあったが、戦局の推移、悪化につれて、ビルの地下、20年2月頃からは軍港地区外の地下壕へと移っていった。1年3ヶ月程の勤務中、一番印象に残っているのは、19年6月中旬、ア号作戦が発動になった時の電信室の雰囲気である。夜0時からの当直で電信室に入った瞬間、ピーンと張りつめた空気に眠気も吹き飛んでしまい、何ともいえない厳粛さと緊張感に身の引き締まる思いがした。その後、イ号作戦、捷号作戦、ペネン沖での一等巡洋艦「羽黒」、一等駆逐艦「神風」と英艦艇との交戦等、何度か重要な局面での当直もあったが、このときの様なキューンと身の引き締まる思いを、あまり感じることはなかった。貴重な経験であったと思っている。

 敗戦後は、通信規則、交信規程、暗号書等秘密文書の焼却、三八歩兵銃の銃身に刻印してあった菊のご紋章の削除その他、武装解除の準備を行った。その後、第10南遺艦隊司令部付となり、ジョホール水道に在った一等巡洋艦「高雄」に乗り組み、21年暮れまで、復員船(艦)との通信連絡にあたる傍ら5万トン浮きドッグ、テンガー飛行場、艦艇等で英軍の作業に従事した。暑い中での厳しい作業ではあったが、現地の人達との手振り身振りでの会話は楽しくよい息抜きともなった。また、作業を通じて華僑のしたたかな生き方をみて、それまで、時代の趨勢もあって中国人を軽く見る傾向があったが、それは大きな間違いであることを痛感した。

 19年9月の初めころであったかと思うが、三日熱マラリアで海軍病院に入院をしたことがあった。症状は、その前にデング熱で高熱を経験していたこともあってか軽く、半月ほどで退院をすることができた。退院前、患者の慰問で外へ映画を見に行く機会に恵まれた。このときまで市街地へ行ったことはなかったので、トラックに乗っての市内見物ではあったが見る物珍しく心が和み、楽しんだだけではなく、 チャイナドレスを纏ったクーニャン達に逢い、この上ない目の保養となった。5月に、海軍防府通信学校での過程を終えて配属されたばかりで慣れてはきていたものの、何分の駆け出し下士官の身の回りのこと、食卓番、送信機を動かす官制線の補修作業等雑用に追われての、また、入院をしていても階級が物をいう社会、緊張の毎日だっただけに、異国の何かと物珍しい夕刻の風景に気持が安らぎ、特に、聞いてはいたものの見るのは初めてのクーニャンの姿に心が潤う思いがした。今は懐かしい思い出の一つである。

 昭南島は戦地ではあったが、何回か空襲に遭っただけで敗戦となった。あれから60年、往時のことは忘却の彼方に埋没しつつあるが、この機会に精一杯、懸命に生きた一時期のことを思い出すままに述べることとした。