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11.大正生まれの青春

坂戸市 久木田澄信(85歳)

 大正生まれの俺達は、明治の親父に育てられ、忠君愛国そのままに、お国の為に死んでゆきや、日本男児の本懐と、覚悟を決めていた、なあ、お前。(戦友作)

 徴兵検査 日本国籍を持つ男子は、20歳になると兵役の義務があり、私も昭和15年5月初旬、当時住んでいた台湾台北市で、徴兵検査を受け、検査官から「オメデトウ、甲種合格と告げられ、当時の私としては嬉しい限りであった。(註昭和15年は紀元2600年 西暦1940年)

 入隊 現役兵入隊通知書受領。昭和15年12月1日、熊本市西部21部隊(野砲兵第6連隊補充隊)に入隊すべし、とあった。

 熊本へ 昭和15年11月中旬、生まれ育った台北市から皆さんの熱い見送りを受け、基隆港から内台連絡線高砂丸で郷里鹿児島市に帰り墓参りをすませて熊本へ。熊本市では鹿児島市役所指定旅館に泊まる。

 昭和15年12月1日朝、旅館の皆様に送られ入営。広い営庭は入営兵で一杯。のち、各隊60余名が9個中隊に分けられたのですから、500名以上いたわけです。

 私は、第2中隊第4内務班に決まりました。全員で記念写真。そして営庭の机に用意された昼食、赤飯他でした。

 室内に入ると、私の名札のついた軍服などがあり、古兵さんの指導で軍服に着替えて(私服は小包にして留守宅送り)見かけは立派な帝国陸軍二等兵になりました。

 これからは寝るも起きるも、みなラッパの軍隊生活の始まり。室の入口には大きな鏡あり、必ずその前で服装は端正にと教わる。

 砲兵隊は馬が多いので、その世話が大変。水飼(水を飲ませる)飼料(馬の食事)蹄鉄の手入れ、運動と。水は一回7〜8L位飲む。起床ラッパは「新兵さんも、古兵さんも皆起きろ」と聞こえる。分きざみの一日が終わりホッとすると、消灯ラッパ。「新平さんはかわいそうだね。また寝て泣くのかねー」と聞こえる。

 陸軍二等兵の給料、月額5円55銭。それを10日毎に支給され、最低50銭は強制貯金。

 出征 行先は中国山西省南部の黄河近く。

 昭和16年1月29日夜、ラッパ隊を先頭に市中行進。沿道で市民の熱烈な歓声を受けて、熊本駅前で見送り家族と別れを告げ列車で門司へ。直ちに輸送船徳寿丸に乗船、出航。

 2月3日、中国塘沽(タンクー)に上陸。貨物列車で天津、石家荘、大原、着いた処は解県(カイケン)、泌々とエライ処へ来たと思う。解県は三国志の英雄関羽将軍の故郷。立派な関帝廟が場外にあった。近くに琵琶湖と同じ位のカン湖(塩辛い)あり。麦、コーリャン、アワ、サツマイモ、アンズ、阿片をとるケシ等多し。そして昭和16年5月の中原会戦が初陣。日夜警備、戦闘のあけくれ。転々と移動。解県、蒲州(ホシュウ)(楊貴妃の故郷)、夏県、岐か河(キカガワ)、 翼城(ヨクジョウ)、新こう 、河津と数知れず。昭和19年4月からは、河南省開封の黄河敵前渡河で始まった大陸打通作戦、中牟(チュウム)、密県(ミツケン)と戦闘戦闘。死傷多し。河南省を南進、武漢の漢口、武昌、岳州、長沙(チュウサ)、宝慶。全県、現在は観光地として有名な広西省桂林の会戦。私は両脚負傷。昭和19年11月10日朝、野戦病院で約2ヶ月療養。昭和20年1月初め、約20名の戦友とビッコの脚を引きずりながら、本隊追及。柳州(リュウシュウ)でこれから先危ないと注意を受け、武昌からの応援部隊に合流。南寧、中国と仏印の国境、?南関を越え、仏印(現ベトナム)の本隊に到着。昭和20年3月7日朝であった。

 日仏両軍の交渉決裂(明号作戦。ベトナム、カンボジヤ、ラオス。仏より独立)仏軍との戦闘始まる。3月10日から約10日位、双方戦死者甚だし。それから仏印でゆっくりする間もなく、持てる限りの兵器、弾薬、食料を携行。連合軍の上陸阻止の命によりマレーへ夜行軍。難儀そのものでした。終戦、ほっとしたのが実感。タイ国への反転、武装解除、ジャングルを伐り開いて自活。その数、陸海合わせて10万余でした。昼は道路工事や英仏軍の命ずる仕事。夜は我が役者の芝居など楽しみ、ひたすら帰国命令を待つ毎日でした。そして、昭和21年4月12日、帰国命令。トラックで盤谷(バンコク)着。そこから終結する部隊用の宿舎造りを命ぜられ、昭和21年5月4日、待望の復員船に乗り、昭和21年5月19日佐世保港着。冬服一着、現金300円支給され、鹿児島着。昭和21年5月22日、夕方でした。 私26歳。

 列車の乗客は皆さん本当にやさしく、ねぎらって下さいました。