ホーム  > 平和のための戦争体験記 目次  > 10. 60年後の軍国少年の思い

10. 60年後の軍国少年の思い

坂戸市 高田郁郎(74歳)

 小中学校の登下校の際には、必ず校門近くにあった奉安殿[天皇・皇后の写真、御真影(ごしんえい)と教育勅語を保管]の前で最敬礼。朝礼では、浜松を基点にし、(当時、浜松に居住)東方の天皇の住まい(皇居)に向かい最敬礼、次に回れ右をし、西方の伊勢神宮を遙拝して、一日の生活が始まる、天皇を神格化した軍国主義教育を、昭和十二年、小学一年入学時から、昭和二十年、中学二年の敗戦を迎えるまでの九年間、強いられて育ちました。

 昭和十九年、中学に入ると、軍事教練を受け、3〜5年の上級生は、実弾こそ撃たなかったと思うが、三八式歩兵銃を担ぎ、校庭内を突撃、行進の訓練を配属将校に、叱咤激励され、低学年の私達は、木製の剣付き銃を持たされ、敵兵を突き殺す銃剣術を、「そんな事じゃ敵は殺せぬ」と怒鳴られ、殴られながら、その上敵と戦って死ぬ時には大きな声で「天皇陛下バンザイ」と叫んで、死ねと当時まだ13〜15歳の少年に、たたき込む訓練でした。

 中学入学の年、前半は、まだ教室での授業を受けられましたが、後半になると、戦局は益々厳しくなり、教室の授業に変わって、3年以上の上級生は軍需工場へ動員され、私達下級生は、校庭を耕してさつま芋づくり、浜松近郊の出征兵士の農家へ行き農作業の奉仕、更に本土決戦に備えて山中に壕を掘る為の兵隊さんへの応援が、学校生活の殆どとなりました。

 浜松は、当時は陸軍飛行部隊、高射砲連隊も有り、軍の街でも有り、中学生の子供に対する軍需教育も特に厳しいものが有りました。

 更に、浜松は近くに浜名湖、県内の富士山が丁度、敵(アメリカ)の爆撃機・B29が東京空襲の往復のコース目標になっており、浜松を狙った爆撃以外にも、東京で落とし残った爆弾を帰路、浜松上空で落とし処理していく事も何度かありました。昭和二十年四月三十日、空襲警報が発令され、6人の学友と学校から帰宅中、私達の上空で爆弾が投下され、頭上から爆弾が落ちてくる時は、もの凄い空気の圧力で全身が、地面に押し付けられる体験を、初めてしました。勿論日常的に訓練していた、両手で目と耳を塞ぎ、咄嗟に地面に伏せましたが、残念な事に、私の左にいた友達は一瞬、身を伏すのが遅かったのか、爆風で飛来した爆弾の破片で顔面が吹っ飛ばされ即死でした。私は、左の腰の当たりのズボンが真っ赤な血で染まっていましたが、後で解った事ですが、米粒くらいの破片が腰骨に止まり、出血は意外にあって吃驚しましたが、傷口は5ミリぐらいで、病院に行っても、大勢の負傷者でひしめき合い、その程度の傷では、赤チンを塗布して治療済み。ケロイドの傷口は今でも微かに残っています。

 そんな事がありましたが、天皇は現人神(あらひとがみ)、天皇に忠義を尽くせば、それが即、親に孝行となり忠孝一致。天皇が神様の國、天皇の命(めい)で戦う日本が戦争に負ける筈が無いの、永年にわたる軍国主義教育を子供心に信じ、「鬼畜米英」「撃ちして止まぬ」「欲しがりません、勝つまでは」と唱えつつ、昭和二十年八月十五日の敗戦の日を迎えたのです。その時中学2年、14歳でした。

 国家の教育とは、恐ろしいもので、幼年・少年期に叩き込まれた教育の効果か、終戦の時、占領軍アメリカの占領政策により、「天皇の戦争責任は不問」・「天皇制維持」と決まった時には、子供心に本当に良かったと心から思った立派な軍国少年の一人になっていました。

 戦勝国が敗戦国に押しつけた手法とは言え、それ迄の軍国主義教育を一掃し、アメリカ民主主義教育に置き換え、当時の教科書も不当な箇所は、墨で塗りつぶし、平和な民主主義国家を目指して、今年で戦後六十年の歳月が過ぎ去り、孫達も丁度その頃の私の年代に育ちました。

 昨今の皇太子、皇太子妃の言動や、議会での天皇を「元首」にとか、靖国神社問題で政界のK氏が、そんな事をしたら「恐れ多くも、天皇陛下の戦争責任はどうだ」という声が上がる(平成17年6月6日毎日新聞掲載)といった話等々を聞いたり見たりすると、特に「元首」「恐れ多くも」の文字を見ると六十年前の「亡霊」に出会った様な気がし、一体この六十年間は、何だったのかと、やるせなく、国家の教育とは、全く難解なものだと、思う今日この頃です。