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2.戦争体験記(国外での悲惨な体験)

坂戸市 半田紀代美(68歳)

 子どもたちが猛吹雪のなか凍りついた線路の上で母を父を呼ぶ、「必死な声」今の私たちに聞こえますか想像できますか?大人の身勝手で子供たちにあのような声、地獄の叫び声を叫ばせてはいけないのです。

 戦後60年を迎える今年、改めて戦争と平和をまとめるという記事を読み、早速私の海外での悲惨な体験を書かせていただきました。

 10歳足らずの子供心にも忘れられない体験でした。今あのようにして引き上げてきた同胞はどんな生活をしておられるのか興味のあるところです。

 冬の訪れの早い国境では8月にはとうもろこしのひげが伸び、コスモスが咲き乱れ、秋風がさわさわと吹き子供なりに異郷の寂しさを感じる町カイネが生まれ故郷、今の長春・・・・新京が子供心を謳歌した私のまちでした。私の父は戦争体験と引き上げ時の苦労がたたり若くして亡くなりました。必死で連れ帰った妹も引き上げ後すぐなくなりました。

 平和な日本人町も人々も、ソ連軍参戦という一夜のニュースでてんやわんやの、買占め、物取り、女、子供の外出禁止、私たちは右往左往何も手につかない生活だったと思います。平和な生活も国境警備隊の関東軍敗退により、日本人の悲惨な2年間が始まりました。

 新京から朝鮮へ疎開、また都会へと脱出のため三日三晩雨に打たれ、玉音放送は雨に濡れた無蓋貨車で放心したように聞きました。満鮮国境線は線路がはずされていました。敗戦の苦しみは今、親になって知る苦しみです。北満の真冬すべて凍りついた山道、国境で線路がはずされたつるつるの枕木、線路をリーダーに遅れまいと歩きました。そのためには幼い子に少しばかりの食べ物を与え、大人はその前から夢中で逃げました。父や母を呼ぶ声は今でも思い出します。

 今その子どもたちは元気なら60歳ぐらいどのような生き方をしてこられたか、60年を過ぎた今、親探しの記事を見るたびに心の痛む方も多いと思います。あれから60年お互い年を取り手がかりは薄れていきます。憎しみ殺し合いも悲惨ですが、かわいいわが子を、死のふちにおいて淘汰しながら生きてきた親たちも悲惨です。もう二度とあの苦しみはしてはいけないと、いまさらながら考えています。