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1.空襲と私

坂戸市片柳 磯野リツ子(78歳)

 私は熊本市で生まれ育ち当地で戦中戦後を送った。昭和20年3月、熊本大空襲の夜、警戒警報に続く空襲警報のサイレンに目を覚まし、あわてて防空壕に飛び込んだのと同時に大きな音がして外が騒がしくなり恐る恐る防空壕から出てみると照明弾が落とされ、あたりは明るく我が家は燃えています。あちこちに火の手が上がり「この辺は危ないから」と防空部長さんが言い女子供は近くの広い田圃へ避難をした。田圃からは周囲の家々が夜空を赤く染めながら燃えているのが見え、偶に私たちの側に焼夷弾が落ちてきてやわらかい土に突きささった。これからいったいどうなるのか。不安で皆黙ったまま呆然としゃがみ込んでいた。

 夜明け方警報が解除され、帰ってみると働き手はどの家も応召されて居ないので兄と近所のお兄さんとで消火に努め、隣や向かいの家は類焼を免れて残っていた。わずかに原形を残した我が家を見て驚いた。焼夷弾はつい先ほどまで寝ていた四畳半の部屋の天井を突き抜けて敷かれたままの私の布団を直撃し、真っ黒になった布団が燻った煙を上げていた。わずか何十秒かの違いで私の命は助かったのでした。

 父はすでに亡く上の兄は出征し弟は航空乗員養成所に入所していた。焼け出された後は疎開され空き家になっていた向かいの家が親子3人住むことになった。家財は罹災者に配給された布団だけでした。そのころから戦局は苛烈になり、空襲警報のサイレンは昼夜を問わず鳴り響き、昼間B29が編隊を組んで頭上を通過していくのが見られるようになった。そんなある日、勤めている軍需工場から帰った兄は「今日工場が爆撃され、低空してきた飛行機に追っかけられ、激しい機銃掃射を浴び乍ら命からがら防空壕に逃げ込んだ。」と話した。

 熊本市内も度々の空襲で多数の犠牲者や被災者が増える中、酷い大腸カタルの疫病が流行り私もその病気に罹った。医院の待合室は病人であふれ、近所でも何人かの人が亡くなった。食料不足で栄養状態が悪いうえに病院も薬が不足し私は病床で動けない状態になっていた。まだ抗生物質の薬もない時代です。空襲警報がかかると母は防空壕には入らず死ぬ時は一緒だと病床の私の横から動きません。そんな中、8月15日の終戦を迎えました。

 幾日か経ったある日、「アメリカ兵が市内に進駐してくるから若い娘は暴行されるかもしれない。山のほうへ避難した方が良い」という噂が飛び交い人々が動きだした。病床から動けない私に、切羽詰る思いで母は「アメリカ兵が来て暴行を加えるようだったら貴方を刺して自分も自殺する。」といって包丁を用意していました。

 戦後60年、厳しかった戦中戦後を生き抜いて私も78歳になりました。戦争は多くの人の命を奪い、いろいろなものを破壊して何が残るのでしょうか。もう戦争だけは絶対にやってはいけません。声を大きくして叫びたいと思います。