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原子雲の下で

田坂香山

 昭和六年(1931年)九月、満州事変が勃発した。日本の長い戦いの始まりである。
 この年十月、広島市の一角で、若山勇は生まれた。両親は、大手町で、小さな喫茶店を営んでいた。
 昭和十二年(1937年)日中事変が起こり、やがて全面戦争へと拡大していった。
 聖戦完遂のため、「国家総動員法」や、「物価統制令」が施行され、諸物資の不足で、国民の生活は苦しくなるばかりであった。
 昭和十六年(一九四一年)十二月八日、日本軍の真珠湾攻撃により、米、英、両国と開戦、太平洋戦争へと突入していった。
 当初、日本軍は、進攻した各地で戦果をあげ、大本営発表は、連日のように「皇軍の戦捷」を告げていた。
 そのうち、いつの間にか、日本軍の勢力を示す「地図の赤塗り」が止まっていた。
 銃後では、食料も物資も窮乏し、勇の家も店を営むことが難しくなってきた。
 昭和十七年十月、勇の父に赤紙がきた。
 出征の日、父は、召集兵に伍して、隣組の人々や、学童たちの歓呼の声と、日の丸の小旗に送られ、連隊の兵営に向かった。
 勇は、母と弟とともに、入り口まで見送った。
 父は、歓送の人々に挙手の礼をして、門の奥へと消えていった。
 戦況は日増しに不利となり、太平洋の島々で、わが守備隊の相次ぐ玉砕が報じられ、本土が米機の空襲を受けるようになった。
 昭和十八年(一九四三年)秋のことだった。
 勇の父、戦死の公報が届けられた。
 半年もたってから、無言の帰還をした白木の箱の中は、遺髪と小石だけであった。
 後で聞くと、宇品港から御用船で、増援部隊として南方諸島に派遣の途中、太平洋上で米潜水艦に撃沈されたとのことであった。
 戦局急を告げ、日本の各都市は、相次ぐ空爆によって焦土と化し、遂には沖縄も、圧倒的な米軍の猛攻撃で陥落した。
 本土決戦、一億玉砕の掛け声の中、男は徴用、女は挺身隊と、働けるものすべてが動員され、更に学童までも、勉強を停止、勤労奉仕にと、かり立てられていった。
 勇は、この春から徴用を受け、鉄道管理部の操車場で働いていた。弟は、学童集団疎開により、県北、山間部の比婆郡で、級友たちと共同生活を過ごしていた。
 昭和二十年(一九四五年)八月六日。
 その朝、勇はいつものように母の手作り弁当を手に我が家を後にした。
 操車場の広い構内で、列車編成の為、貨車の入れ替え作業に従事していた最中であった。
 午前八時十五分。
 突然、目も眩む閃光が走った。間も無く、グワーンと大音響が耳を劈いたかと思うと、強烈な爆風が塵埃を巻き上げながら襲って来た。勇は、貨車の陰にいたが、衝撃で線路の間に飛ばされた。
 一瞬、何が起こったかと、立ち上がって周囲を見回すと、灰色の煙塵が濛々と舞い上がり、頭上からは砂埃が降ってきた。
 どこかで「避難だ!」と叫ぶ声。
 「空襲だ!」勇は、真っ先に我が家の母を思い浮かべた。夢中で線路を横切り、構内から通りへと飛び出した。
 街は黒煙に霞んでいる。その中へ向かって走り出した。荒神橋を渡り、電車通りに沿って八丁堀方面へ進む。道には切れた電線が垂れ下がり、それに布切れが引っ掛かっている。
 両側は、崩れ落ちた建物の瓦礫が散乱して黒煙と赤い火が吹き出している。
 勇は、足元の障害物を飛び越え、「母さん、母さん」と叫びながら走った。
 ようやく、大手町の我が家の辺りに帰り着いて見ると、ここも無惨な有様で、潰れた家並み、舞い立つ煙塵、そしてあちらこちらから赤い火がチロチロと舌を出している。
 我が家は、ペシャンコに崩れ落ち、僅かに玄関が形を残し、店の看板が斜めにぶら下がっていた。折れ重なった材木の間から、台所らしい流しのタイルが見えた。「母は生きている。」勇は、柱や壁の間をかき分け、居間と覚しき辺りに、母の蹲ったエプロン姿を見つけ、思わず、「母さーん」と声をあげた。
 どうやら母は、家事の最中、爆発に襲われたが、居間の家具と柱の間に居て、潰れ落ちる瓦礫から奇跡的に免れたらしい。懸命に障害物を取り除き、母の体を引き出して見ると、幸い、外見からは、大きな負傷は見当たらない。白足袋のまま、やっと歩ける状態の母に手を貸して大通りへと逃げ出していった。
 大通りでは、大勢の人が逃げ惑っていた。
 みんな、着衣は破れ、頭から背中から、血と汗が流れている。肩や腕からボロ切れの様にぶら下がっているのは、灼熱の光線で焼け爛れた皮膚だ。
 子供を抱いて、目も空ろによろよろと歩く女の人、自分の家族を探してか、名前を呼びながら煙の彼方へ消えて行く人、倒れた家屋の下から「助けて!」と悲痛な叫び声。
 しかし、真近には、熱風と火焔が迫って来た。
 勇は、母の手を惹いて、人の流れを北へ向かって歩いた。練兵場までひとまづ避難しようと考えた。しかし近付いて見ると、そこも地獄の修羅場と化していた。被爆者の群れが、大勢倒れ込んだ状態である。
 真っ暗な空から雷鳴が轟き、生温かい風が吹き、雨が降り出した。黒い雨だった。
 勇は、作業帽の紐を締め直すと、母の手を握り、再び歩き出した。母が、「古市まで行こう」といった。古市には、母の知人が居て、かねてから、空襲に備えて、主だった家財などを疎開として預けてある農家があった。
 勇は火の海のこの街から一刻も早く脱出したかった。行く先の目当てが決まると、母を励ましながら本川の川岸伝いに進む。
 川岸には,業火に追われた人たちが水を求めて群がり、川中に入った人は、そのまま流されて行った。
 勇も、咽喉の乾きを覚えながら、母の手を離すまいと、避難する人の群れに混じって、ひたすら歩き続けた。
 横川の踏切を越え、三篠に差し掛かると、この辺り、家並みも残り、被害もここ迄は及ばない様子だ。街路樹の葉が青い。人家の前には、住民の姿も見え、やっと人心地を取り戻した。死の恐怖から逃れて来た人々も、殆どがひどい火傷を負い、力尽きて倒れ込む者、周囲が目に入らぬのか、よろけながら歩き続けるもの、その中に混じって、勇む母子は、背後から、またあの光と熱風に襲われるのかと、心のそこの恐怖を拭い切れなかった。
 目指す古市はまだ遠い。心は焦っても、母の疲労はひどくなるばかり。座り込む回数が増えて来るのも仕方が無かった。
 避難する人の列はまだ続く。勇母子は、その流れに連れられ、大田川を渡り、長束まで来たが、ぐったりとなった母は、もはや限界であった。
 この付近では、地元の警防団や婦人会の人たちが、急拵らえの救護所を設け、炊き出しや救援活動を開始していた。
 勇は、母を、農家の庭先に筵を敷いた一角に休ませることにした。
 周囲の避難者たちは、口々に、「我が家の真上に直撃段が落ちて来た。」と話している。勇も、これまでの知識から、あの壊滅状態の市街を走って逃げながら、何百という爆弾が一挙に落とされたように感じていた。
 しかし、今は何より母の様子が心配だ。
 医者はおろか、薬も手元には無い。
 幸い、その農家の人が、親切にも、一室を提供して呉れ、救護班から提供された握り飯と、取りあえずの衣類を受け取り、その日は暮れた。長い悪夢の一日であった。
 その夜から勇は、母の看病に付きっ切りであった。母は、火傷こそ見えないが、あの閃光と熱風を真近に浴びたせいか、時間の経過とともに、衰弱がひどくなって行った。
 三日目の朝、歯茎から黒い血が綿のような塊となって出て来た。手足の爪の間からもどす黒い血が滲んで出る。
 次の日、母の顔を拭いて、櫛で髪を梳くと、髪の毛がゴッソリと抜けた。手足は異様に浮腫み、皮膚は紫色を呈していた。
 卵入りの粥を口に入れてやっても、自力で嚥下することも出来ない。勇は途方に暮れて、ひどく悲しくて仕方が無かった。
 八月九日、長崎にも、広島と同様の大型高性能曳光弾が投下され、甚大な損害を蒙ったとラジオが報じていた。
 あのピカドンが、世界初の原子爆弾という兇悪な兵器であると知ったのは、ずっと後のことであった。
 八月十四日、広島地方では、祖先の霊を偲ぶ孟蘭盆の日である。
 勇の母は、その日の夕方、勇に看取られながら息を引き取った。蛍がすうーっと消えて行った。

 あのときから半世紀以上を経過したいま、広島の空は晴れ渡り、七つの川は変わらず今日も静かに流れている。
 中山勇は、奇しくも命拾いした人生を、苦しみの幾山河を越えて生きて来た。
 平成十四年(二〇〇二年)春四月、散り行く花とともに、勇、七十一年の生涯を終えたのであった。長い、原爆後遺症との戦いは、壮絶なものであった。最後まで治療にあたった医師の話では、腕の骨が十センチ程も溶けていたそうだ。
 放射能の酷さ、凄さ、恐さは、このことだけでも充分証されられるのでは無かろうか。いまは、多くの原爆犠牲者の霊を弔い、再びこの惨禍を起こさせてはならないと誓うのみである。

 私は、故郷広島の原爆被害で、多くの肉親、友人たちを失った。そして今も尚、後遺症に苦しみながら生きている人々が、多く存在することを、世界の人に改めて知って欲しい。この世から核と戦争を絶滅することに力を合わせて欲しい。平和を願って止みません。